この3・11東日本大災害では、情報の交錯という側面があぶりだされております。
そこでは、どの情報を選択すべきなのかという判断をせまられる。
そんな場面もあったし、あるのでした。思い浮かぶのは
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書)。
「ル・クレジオの『大洪水』には、多情報社会で失語症になった人間が描かれている。自分のまわりにあまりにも多くの命令指示の言葉がありすぎる、危険を警告する言葉もあふれている。新聞売場も・・など強烈な言葉に満ちている。あまりに強烈な言葉にさらされ、刺激を受けつづけ、その人間は啞(おし)になってしまう。動物の自己防衛本能のように他の人間の言葉を無意味な雑音として聞くようになって、ボードレールの詩句や宣戦布告のような大事な言葉にも反応を示さない。失語症というよりも、言語不感症とでもいった方がよいかもしれない。・・・・」(p25~26)
ちなみに、ル・クレジオの「大洪水」は、新刊が河出文庫で2009年に出ておりました。未読。
さてっと、この板坂元氏の著書に、「尾崎紅葉の心意気」という箇所があったのでした。それは内田魯庵著「思ひ出す人々」から引用されておりました。ガンで重態の尾崎紅葉が高価な辞書を丸善に買いに来る話なのでした。
「『センチュリー』を買ってどうする?」と瀕死の病人が高価な辞書を買ってどうする気かと不思議でならんので、「それどころじゃあるまい」と言うと、「そう言えばそうだが、評判はかねて聞いているから、どんなものだか冥土の土産に見ておきたいと思ってね。まだ一と月や二た月は大丈夫生きているから、ユックリ見て行かれる」。・・・・
こうしたやりとりを、魯庵は書き残しております。それから三ヶ月目に紅葉は永眠。魯庵と話したときには、すでに流動物しかノドに通らないほどガンは進行していたらしい。と板坂氏は、つけくわえて、その最後に
「仕入れのためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になっている今の多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、人間らしく生きるためにも大切になってきている。また、書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。」(~p165)
同時代でとりあげるのなら、黒岩比佐子を思い浮かべる箇所です。
とりあえず、読まなくとも、ル・クレジオの「大洪水」と内田魯庵の「思ひ出す人々」(岩波文庫「新編思い出す人々」)を身近に置いとくことにします。