以前買った古本が本棚から出てきました(笑)。
桑原武夫と加藤周一の対談「中国とつきあう法」(潮出版社)。
とりあえず、桑原武夫という名にひかれて買ったまま、
忘れておりました。
表紙は共通の先輩高田博厚氏のもの。
その表紙は、赤い花が一輪。
対談の最初に、
1977年の桑原武夫氏の「中国について」という13ページほどの文が、まず載せられております。その頃は、どういう時代だったかも、さりげなく語られおります。それがちょうど「赤い花」を語っている箇所なのでした。
「現代日本では言論は自由でありますけれども、同時にまた誤解の自由も行きわたっておりまして、たとえば私が『ここに赤い花が咲いている』と言いますと、それは私が赤い花の存在に気づいたというだけのことですが、それが赤い花に関心をもっており、したがってそれの存在を肯定しているにちがいない、というふうに受け取られることがあるのであります。・・それで以下申し上げることは、中国をほめ、あるいはけなすという目的があるのではなく、皆さんの討論のネタを供給するというだけの意図として受け取っていただきたいのであります。」
「中国が原爆、さらに一般的に原子力エネルギーの研究、実験をしているのは新疆省だろうと思えます。死の灰はイデオロギーを超えてコミュニストにもファシストにも同じように有害な作用を及ぼすものですが、新疆省に市民の反対運動があるという報道を聞いたことはありません。報道の管制というより実際ないのではないでしょうか。私は日本の過激派の学生が新疆省へアジりに潜入したりすることに反対ですが、このことを一つ考えても、中国と日本とがどのように国情が違うかが明らかなわけです。」
私に興味深かった箇所は
「中国と日本との基本的な相違――日本人が強く意識しない、あるいは意識することを好まない相違は、中国人の政治性と日本人の非政治性ということであります。日本のインテリは、私は政治はわかりませんとか、私は政治は嫌いですとかよく言います。それがカッコよく受け取られるのですが、中国風に考えると、人間が社会生活を営むものである以上、その人間の扱い方、つまりポリティックというものがあるのは当然で、それをじょうずに行なうことは必要であるけれども、それを無視ないし拒否するなどというのは人間的でないということになるでしょう。それなのに政治は嫌い、政治はわからないなどと平気でいうのは、公開の席で私はインポテンツだと言っているようなもので、むしろおかしいのではないかということになります。陳舜臣さんが指摘していますが、日本は中国文学をみごとに摂取したけれども、その際、一つだけはずして移入しようとしなかったものがある、それは中国文学に本質的な政治性だと言うのです。・・・」
この文は、桑原武夫集10巻に掲載されており、一度読んだような気がするのですが、すっかり忘れておりました。この文は「中国そのものについてというよりむしろ日本人の現代中国にたいする見方、あるいはそれとのつきあい方ということについて若干の点を・・」とあり、今読んでも基本を押さえて、新鮮さがひろがります。
ちなみに、あとがきは加藤周一氏。そこに
「『中国とつきあう法』という本の題は、中野重治氏の『本とつきあう法』に負うている」とありました。それにしても、この二人の対談というのは、最初思い浮かばなかったのですが、桑原武夫氏の懐の深さに思い至りました。
桑原武夫と加藤周一の対談「中国とつきあう法」(潮出版社)。
とりあえず、桑原武夫という名にひかれて買ったまま、
忘れておりました。
表紙は共通の先輩高田博厚氏のもの。
その表紙は、赤い花が一輪。
対談の最初に、
1977年の桑原武夫氏の「中国について」という13ページほどの文が、まず載せられております。その頃は、どういう時代だったかも、さりげなく語られおります。それがちょうど「赤い花」を語っている箇所なのでした。
「現代日本では言論は自由でありますけれども、同時にまた誤解の自由も行きわたっておりまして、たとえば私が『ここに赤い花が咲いている』と言いますと、それは私が赤い花の存在に気づいたというだけのことですが、それが赤い花に関心をもっており、したがってそれの存在を肯定しているにちがいない、というふうに受け取られることがあるのであります。・・それで以下申し上げることは、中国をほめ、あるいはけなすという目的があるのではなく、皆さんの討論のネタを供給するというだけの意図として受け取っていただきたいのであります。」
「中国が原爆、さらに一般的に原子力エネルギーの研究、実験をしているのは新疆省だろうと思えます。死の灰はイデオロギーを超えてコミュニストにもファシストにも同じように有害な作用を及ぼすものですが、新疆省に市民の反対運動があるという報道を聞いたことはありません。報道の管制というより実際ないのではないでしょうか。私は日本の過激派の学生が新疆省へアジりに潜入したりすることに反対ですが、このことを一つ考えても、中国と日本とがどのように国情が違うかが明らかなわけです。」
私に興味深かった箇所は
「中国と日本との基本的な相違――日本人が強く意識しない、あるいは意識することを好まない相違は、中国人の政治性と日本人の非政治性ということであります。日本のインテリは、私は政治はわかりませんとか、私は政治は嫌いですとかよく言います。それがカッコよく受け取られるのですが、中国風に考えると、人間が社会生活を営むものである以上、その人間の扱い方、つまりポリティックというものがあるのは当然で、それをじょうずに行なうことは必要であるけれども、それを無視ないし拒否するなどというのは人間的でないということになるでしょう。それなのに政治は嫌い、政治はわからないなどと平気でいうのは、公開の席で私はインポテンツだと言っているようなもので、むしろおかしいのではないかということになります。陳舜臣さんが指摘していますが、日本は中国文学をみごとに摂取したけれども、その際、一つだけはずして移入しようとしなかったものがある、それは中国文学に本質的な政治性だと言うのです。・・・」
この文は、桑原武夫集10巻に掲載されており、一度読んだような気がするのですが、すっかり忘れておりました。この文は「中国そのものについてというよりむしろ日本人の現代中国にたいする見方、あるいはそれとのつきあい方ということについて若干の点を・・」とあり、今読んでも基本を押さえて、新鮮さがひろがります。
ちなみに、あとがきは加藤周一氏。そこに
「『中国とつきあう法』という本の題は、中野重治氏の『本とつきあう法』に負うている」とありました。それにしても、この二人の対談というのは、最初思い浮かばなかったのですが、桑原武夫氏の懐の深さに思い至りました。