和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

どんな声を出すか。

2012-10-17 | 本棚並べ
桑原武夫氏の「中国について」に
「郭沫若氏の一面」に触れた箇所があったので、
さっそく、桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書)を
本棚から取り出してくる。
そのはじまりは、
「私は本をよむことを職業にしているが、
実をいうと動かぬ活字より動く人間に興味がある。
そして、死んでいる活字を生き生きと躍動させる
すぐれた思想なるものは、どういう人間の身体と
結びついて生まれてくるのだろうか、と考える。
・・・生きている偉い人に会ってみたいのも、
その人がどんな身体つきをして、どんな声を出すか
をじかに見聞して、それと思想との関係を憶測する
手がかりをえたい、という気持ちがあるからだ。
それは大てい好奇心の満足におわって、そこから
思想と身体との結びつきについて何らかの説明の
いとぐちがつかめる、といったことはめったにないのだが、
それでもよいのである。・・・」

そういえば、新聞をひらき
丸谷才一氏の追悼文を読むと、
その会った際のことが語られている箇所に
どうしても注目してしまいます。

ここでは、引用のみ。

「作家の丸谷才一氏が13日、心不全で世を去った。『多少、小説の書き方が分かってきた気がする。最後まで現役の作家でいたいなあ。ハッハッハッ・・・』。昨年10月、8年ぶりの長編小説『持ち重りする薔薇の花』について取材したとき、ふだんと同じように豪快に笑った姿が印象に残っている。」(産経10月14日社会面・海老沢類)

その豪快さを読売新聞10月16日の編集手帳は、こう記しておりました。

「丸谷才一さんが音楽学校で英語を教えていた頃の逸話が、まことしやかに伝わっている。丸谷さんの声があまりに大きいので、隣の教室で合唱の授業をしていたクラスが離れた教室に避難したという。合唱も打ち負かす伝説の大声をじかに浴びたのは、3年ほど前である。食事をご一緒した折、質問をした。村上春樹さんの小説が芥川賞の選に漏れたとき、丸谷さんは選考委員でしたな。いま顧みて、『しくじった!』という感想をお持ちですか?『僕が!僕が、ですか?』空気が震え、グラスのワインが波立った。・・・『Aが村上の才能を恐れて受賞に反対した。僕と吉行(淳之介)はAに抵抗したが、力が及ばなかった』。30年も前の選考会を昨日のように振り返り、血を滾(たぎ)らせる。日ごろ穏やかな紳士だからこそ、大音声の爆発がサマになった。・・・」

その同じ日の読売文化欄には辻原登氏が追悼文を寄せておりました。
その最後の方に

「・・・怒る丸谷さんの想い出をひとつ。
14年前、私がある文学賞を受賞したときのこと。
その年、小説部門の受賞者は二人だった。
六つの部門があって、授賞式での挨拶は各々、
三分以内でと主催者から言い渡されていたのだが、
最初に立った小説家の挨拶が二十分を超えてしまった。
数百人の出席者はみな立ったままである。
会場が騒めきだした。ようやく終わって、
次が私の番。
私は用意したとおりの三分間のスピーチを行った。
パーティが終わって、私の受賞を祝う銀座の
二次会の会場に移った。丸谷さんはその文学賞の
選考委員で、私の作品を強く推してくれ、
二次会にも出席して下さったが、
私が少し遅れて着いて、丸谷さんの隣の席につくと、
あの大声がひびきわたった。

『きみのあの挨拶は何だ!
ああいうスピーチのあとは、
ありがとうございました、
のひと言で引き下がるべきだ。
それが批評というものだ。
きみには全く機知も批評も欠如している』

本気で怒っているのである。
しかも、なかなかおさまらない。
周りの人たちが丸谷さんを宥(なだ)める。
みな、私を気の毒がって声を掛けてくれる。
最初は驚き、しょげ返ってしまったが、
やがて大きな喜びが湧き上がってきた。
丸谷さんの怒りは正しいし、その言葉は丸谷文学、
いや文学そのものではないか。
喜びが感謝の念に変わった。」

え~と。つい最後の方を全部引用してしまいました。
う~ん。新聞は全紙にあたっていないので残念。
そう、今日の産経新聞文化欄には鹿島茂氏の追悼文。
コメント
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