柴田宵曲著「評伝正岡子規」(岩波文庫)
得意のパラパラ読み。飛び飛び読み。
うん。パラパラ読みでも読めてよかった。
「また、きちんと読み返すんだ」と
そう思わしめる一冊(笑)。
二箇所気になる。
一箇所目は
「要するに居士は文学者たらんとするために学問すべきことを切言し、虚子氏は文学者になりたいとは思うけれども、厭で堪らぬ学問までしてなろうとは思わぬという、ここに大きな分岐点があるのである。冷静に考えれば、この分岐点は両者の立場なり、性格なりからいってむしろ無理のないところであろうと思われる。」(p158)
二箇所目は
「『病牀苦語』は最後に碧(碧梧桐)、虚(虚子)両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に『我々の俳句の標準は年月を経るに従っていよいよ一致する点もあるが、またいよいよ遠ざかって行く点もある。むしろその一致して行く処は今日までにほぼ一致してしもうて、今日以後はだんだんに遠ざかって行く方の傾向が多いのではあるまいかと思われる』といい、『芭蕉の弟子に芭蕉のような人がなく、其角の弟子に其角のような人が出ないばかりでなく、殆んどすべての俳人は殆んど皆独り独りに違って居る。それが必然であるのみならず、その違って居る処が今日のわれわれから見ても面白いと思うのである』というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕跡は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。」(p309~310)
得意のパラパラ読み。飛び飛び読み。
うん。パラパラ読みでも読めてよかった。
「また、きちんと読み返すんだ」と
そう思わしめる一冊(笑)。
二箇所気になる。
一箇所目は
「要するに居士は文学者たらんとするために学問すべきことを切言し、虚子氏は文学者になりたいとは思うけれども、厭で堪らぬ学問までしてなろうとは思わぬという、ここに大きな分岐点があるのである。冷静に考えれば、この分岐点は両者の立場なり、性格なりからいってむしろ無理のないところであろうと思われる。」(p158)
二箇所目は
「『病牀苦語』は最後に碧(碧梧桐)、虚(虚子)両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に『我々の俳句の標準は年月を経るに従っていよいよ一致する点もあるが、またいよいよ遠ざかって行く点もある。むしろその一致して行く処は今日までにほぼ一致してしもうて、今日以後はだんだんに遠ざかって行く方の傾向が多いのではあるまいかと思われる』といい、『芭蕉の弟子に芭蕉のような人がなく、其角の弟子に其角のような人が出ないばかりでなく、殆んどすべての俳人は殆んど皆独り独りに違って居る。それが必然であるのみならず、その違って居る処が今日のわれわれから見ても面白いと思うのである』というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕跡は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。」(p309~310)