岩崎書店「日本古典物語全集⑦」は、森三千代著「枕草子物語」。
森三千代は、金子光晴の妻。はい。名前だけは知ってました。
光晴とともに、東南アジア経由でフランスへ行ったのも、
何となく知るところです。
『枕草子物語』は、解説も森三千代。
その解説の、最後を引用。
「こういう特殊な簡潔な文章だけに、それを現代語に訳すことは、
そうとう困難でした。それに、千年前の平安朝時代の貴族生活は、
今日ではもう、外国よりも縁がとおく、いくら説明しても、
しっくりとわからせることができないこともあります。
古典としての文章の味わいや香気も、そのまま現代語訳で
伝えることのむずかしい箇所も多いのです。できるだけ、
内容や味わいをそこなわないように努力してみました。」
(p316・1975年2月28日発行)
ちなみに、森三千代(1901年~1977年)愛媛県生まれ。
はい。わかりやすく、パラパラ読みの私にも、伝わるものがありました。
うん。ここには、森三千代の解説から、清少納言の略歴を紹介。
「橘則光という役人の妻になり、子供の則長を生みましたが、
事情があって離婚しました。
28歳の春、清少納言は、一条天皇の中宮定子のもとに女官として
宮仕えすることになりました。中宮定子は、その時の関白の
藤原道隆の娘でした。この世をばわが世とぞ思う望月の
かけたることのなしとおもえば、という、あの有名な歌を詠んだ
道長は、この道隆の弟です。
この時代が、藤原氏が権勢をほしいままにした、
いちばん華やかな時代でした。当時の宮仕えの女官たちは、みんな才女で、
歌を詠んだり、文章を作ったり、字を書いたりすることにすぐれていて、
平安時代の文化の華を咲かせたものです。
・・・・・
清少納言にとって、宮中生活は、生涯でもっとも華やかな時代でした。
宮中に出て4年目に、中宮定子の兄たちに不敬事件があって、
兄たちが流刑になり、そのため、中宮定子は勢力が衰えました。
清少納言は、その後もずっと仕えて、36歳のときに
宮仕えを去りました。出仕してから八、九年でした。
晩年は孤独になって、ずいぶんさびしい生活をしたといわれています。
・・・・・・・」(p312~313)
はい。略歴がわかったところで、
森三千代訳の枕草子から「紙と畳ござ」を引用
「中宮の御前で、女官たちがれいによって、
おおぜいでいろいろお話をしていました。
なにかの話のときに、わたしが、
『ほんとうに世の中がいやになって、
これ以上がまんができない、どこか遠いところへでも
行ってしまいたいと思うことがあります。
そんなときでも、白い紙や、書きよさそうな筆や、
色紙などが手に入りますと、憂うつなんかどこかへ飛んでしまって、
すっかりきげんがなおってしまいます・・・・・
高麗べりの青々とした畳ござの、へりのもようが黒と白で
くっきりしたのを、さっとひろげてみていますと、
きゅうに、この世の中がはなやかなに見えてきて、
いつまででも生きていたいという気になります。』
そんな感想を述べますと、中宮は、お笑いになって、
『まあ、そんなことで、死ぬのがいやになったりするの。
では、姥捨山の月は、どんな人が見るのかしら。』と言われました。
( 姥捨山というのは、
『わがこころ、なぐさめかねつ更級や、姥捨山に照る月をみて』
という古歌から思いついて、中宮が、年をとって山へすてられた
老女の悲しい気持とくらべ、清少納言をからかったのです。 )
そばにいる友達の女官たちも、『紙や畳ござで世の中が
楽しくなるなら、こんなかんたんなことはないはねえ。』
と言って、顔を見あわせて、くすくす笑いました。
それからずっと後のことです。心配ごとがあって、
御殿からさがり、じっとわが家にとじこもっていますと、
中宮からお使いが来て、すばらしい上等な紙を二十枚、
包んでくださいました。
早く御殿へ出仕なさいなどとは言わないで、ただ、
『いつか、あなたから聞いたことがあるので、
気ばらしに、この紙、少々おくります。
あんまり上等な紙ではありませんから、
延命祈願の寿命経を書くには、適当でないかもしれませんけど。』
とだけ書いてありました。
・・・・・・・・・」(p291~p293)