牧村史陽編「大阪ことば事典」(講談社・昭和54年)。
函入で、装幀・遠山八郎。さし絵・四世長谷川貞信。
はい。装幀もいい。さし絵もよい。
ステキなので本文を読まなくても満足(笑)。
はい。私には、こういうところがあります。
最後のほうをひらくと、
付録として、「大阪のシャレ言葉」「いろはたとえ」
が載っておりました。いずれにも、はじまりに編者の
言葉があります。
「大阪のシャレ言葉」の編者によるはじまりを
少し引用。
「大阪人は古来シャレ好きである。
近松の戯曲を読んでも、至るところにシャレが飛び出してくる。
そのシャレが、明治時代にはまだ盛んに行われていた。
ちょっとしたシャレを言っても、すぐにその意を解して、
皆がどっと囃したものである。そのシャレが
この頃少しも通じなくなったのはどうしたことであろうか。
・・・・・」
こうして、あいうえお順に、シャレ言葉が並んでいます。
つぎ行きます。
「いろはたとえ」には、こんな指摘も
「私の記憶を確かめるために、昭和26年冬、『いろはたとえ』について、
知友百数十人に調査表を送って解答を依頼した。そのうち
62名から懇篤な返事をもらった・・・ 」
「年齢54~5歳(調査当時1951年)を境として、
回答に判然とした相違が現れているのは面白く、たとえば
『いやいや三杯』『これにこりよ道才坊』『寺から里へ』『竿の先に鈴』
などは、それ以上の老人に限り、50歳以下の回答には
全く見られないが、これは・・・日露戦争後の急激な社会変革によって、
いわゆる東京の新文化が大阪に流れ込んできた結果であることが、
ここにもはっきりと現れていいる。・・・・」
それはそうと、「いろはたとえ」の最初のほうに
「ろ」に、「六十の手習」とあって、つぎの
「は」に、「八十の手習」がある。
きちんと、大阪と東京との回答数も記されているので、
回答数も、ついでに引用しておきます。
「六十の手習」は、大阪8名・東京2名。
「八十の手習」は、大阪7名・東京1名。
う~ん。60歳過ぎたら、圧倒的に大坂の方が
手習いの知名度が高い(笑)。
そのあとにページをめくると、
「最後に、明治中期の大阪における『いろはたとえ』の実例を
示しておく。私の手許に、明治20年代に印行された一枚刷が5種ある。
として、その相違も一覧できるようになっておりました。こちらには、
「六十のてならひ」はなく「八十のてならひ」のみ登場しております。
「八十のてならひ」が登場する「いろはたとえ」は
「『大阪淀屋高麗橋南へ入る、西床板』とあるが年代不詳」
と編者は記しておりました。
うん。うん。大阪と「八十のてならひ」の結びつき?
そのくらいにして、そういえばと思い出したのは、
「女子大生、渡辺京二に会いに行く」(文春文庫)の
最後の渡辺京二氏の話に出てくるあの言葉でした。
渡辺】 この二日間で、僕がいかに幼稚な人間であるか、
よくおわかりになったと思う(笑)。
自分で80歳になったという自覚が全然なくてね、
僕は60歳ぐらいまでは、もう60になった、当然だなと思ったけど、
ある日80になっとったのよ。おかしいな。
20年間もたったはずがないぞ、竜宮城に行っていたのかなって。
一定の年齢までは、自分をちょっと見せかけたいような気持がある
もんですから、なるべく自分の幼稚さを暴露しないようにして
用心しとったんですが、最近はもうどんどん自分の幼稚さを
暴露するわけです。・・・・(p262~263)
はい。「八十のてならひ」と、
龍宮城より帰る80歳渡辺京二。