和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

方丈記展カタログ。

2020-11-09 | 本棚並べ
簡単にネットで古本が手にはいるようになって、
本を読んでいる中で、本の紹介があったりすると、
読むのは中断して、ネット検索し古本を探します。
安ければ、すぐ注文。それが習慣化しております。

そんな気楽さのためか、注文して時間がたつと、
何でこの本を注文したのか、忘れていることもある。
けれども、本のつながりが分かりやすく、明快だと、
本を辿る楽しみがふえます。

閑話休題。
最近、特別展示のカタログを古本で買いました。

「鴨長明とその時代 方丈記800年記念」
国文学研究資料館創立40周年特別展示とあります。
「ごあいさつ」は今西祐一郎氏。そのなかに

「昨年の東日本大震災は、元暦2年(1185)の大地震のありさまを
つぶさに記した貴重な震災文学としての『方丈記』を再確認させる
ことになりました。・・・」
とあります。
カタログの会期は2012年5月~6月とありました。
すこし、解説(浅田徹)を引用。

「教科書などで『方丈記』の図版として常に掲げられているのは
大福光寺本(現在京都国立博物館寄託)であるが、それは
カタカナ漢字交じりの表記になっている。大福光寺本が長明自筆で
あるかどうかは、この表記スタイルが彼自身の選択したものであったか
どうかを考える上でも決定的な意味を持つが、いまだに結論が出ていない。
ただし、『方丈記』の諸伝本を見ると、圧倒的にひらがな漢字交じりの
ものが多い。さらに、略本の一種である武庫川女子大学図書館蔵真字本は、
漢字ばかりで書かれている。」

はい。災害では、現代でもしばしば漢字で迷わされます。
「避難勧告」「避難指示」「避難準備」それに「避難命令」。う~ん。
この漢字を順番に並べよと質問されても私は判断に迷います(笑)。
さらに、カタログの解説を続けます。

「長明の生きた平安末期から鎌倉初期は、
日本語の表記が成熟していく重要な時期だ。

やまとことばをほとんどひらがなばかりで書いていく
王朝仮名書道の流儀は、平安後期になると、
漢字が取り込めないことの限界が来ようとしていた。

一方、漢字主体で、送り仮名をカタカナで小書きするスタイルは、特に
寺院周辺で広く使われていたが、複雑な思想的概念を展開することには
向いていたものの、流麗な日本語表現に即応できる様式ではなかった。
だが、次第に二つの流れは融合しようとしていたのである。・・・
  ・・・・・・

カタカナまたはひらがな主体で、任意に漢字表記の漢語を交えて
行ける『方丈記』のスタイルは、日本人が中国渡来の思想的概念を、
彫琢された日本語の文章の中に馴致することについて成功した、
時代の記念碑の一つなのである。」(p18~19)

このカタログ本の後半には夏目漱石の英訳本のページもあります。

「漱石は・・英文科2年生だった明治24年(1891)12月に、
『方丈記』を英訳している。英語の成績が秀抜だったため、
英語教師J・M ・ディクソンから依頼されたのだという。
残念ながら、この時の自筆原稿は所在不明である。・・・」
(p69)

この数頁あとに、堀田善衛「方丈記私記」自筆原稿の
一枚目が載っておりました。
「・・・自筆原稿は、各社の担当編集者が美しく製本してから
堀田に返却しており、本作もその習慣に従って一冊に製本されている。
前見返しには『方丈記私記 1970年7月より71年4月、「展望」誌に予が
快心の作の一たりき 善(朱印)』という自筆の一文が添えられている。」
(p71)


はい。ここまで引用してきたら、
堀田善衛著「方丈記私記」のはじまりの箇所を
引用しておきます。
鴨長明の「方丈記」のはじまりは
みなさんよくご存知でしょう。
それでは「方丈記私記」のはじまり

「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、
われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、
また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

1945年、いわゆる昭和で数えて20年の3月9日夜、
私は友人の、詩人であるK君の疎開先に厄介になっていた。
疎開先と言っても・・・東京は目黒区の洗足であった。
・・・・・・・
彼の厳父が運送業を営んでおられ、K君自身もまた
その業の手伝いをしているものであった。・・・・・

あの惨澹たる戦時を、私たちが、文学的にはきわめて
実り多いものとして過ごすことが出来たのは、一つには、
汐留貨物駅の近くに、そこへ集って来る青年たちを
こまやかな理解と心づかいをもって遇して下さった父母をもった、
K君のこの汐留サロンがあったからであった。
 ・・・・・
K君のこの運送屋は、その仕事の性質上、店をたたんで
東京を逃げ出してしまうことが出来ず、従って、
危険は承知の上でそこにとどまらざるをえず、そこで、
K君の厳父が、家族のためにせめて、ということで
東京は都内の洗足池の近くに一軒の家を借り、
そこを疎開の地としたものであった。
またK君一家は、根っからの東京っ子であり、
地方にはこれと言って疎開のために あてになるところも、
つてもなかったもののようであった。

そうして1945年3月と言えば、
すでに右にあげた友人たちも召集されているか、
それこそ疎開をしているかのどちらかであって、
サロンはすでに、とうのむかしに解体をしてしまっていた。
・・・・・・」

そういえば、鴨長明の方丈記は、たしか、
後半に、方丈の家が出て来ておりました。



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仕舞と朗誦。

2020-11-09 | 本棚並べ
堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社・1993年)。
ちなみに、堀田善衛(1918(大正7)年~1998(平成10)年)。
ですから、この本は晩年の一冊ということになります。
本はまず、「何から話しましょう」と、はじまります。

「私の家は、富山県の伏木(ふしき)港(現高岡市)で
徳川時代から代々廻船問屋をやっていました。
いわゆる北前船というもので、北海道から昆布や鰊を積んで
大阪に入る。それから、大阪から帰り船で塩、米、酒、瀬戸物などを
仕入れて北海道にもっていく。・・・・

私が生まれた1918(大正7)年には、米騒動が起って、
そのときには風呂釜でおかゆを炊いてそれを配って凌いだと
いうことも聞いています。・・・

私も幼年時代、自家の船で親父につれられてウラジオストックへ
行ったことがあり、やけに坂の多い、煙突ばかりある家が並んで
いたという記憶が、網膜の裏にかすかに残っています。・・・」
(p7~8)

「生家が廻船問屋でしたから、家にはしょっちゅういろいろな人が
出入りしていました。俳人、画家、能役者といった人たちが
入れ替わり立ち替わり来ていたものだから、おのずとそういう芸能に
も目を開かれ、琴や三味線を習ったりしていたわけです。
仕舞もさせられました。

また、書画・骨董などもずいぶんありましたから、
東京へやってきたときには、まわりのものがみんな薄っぺらく
感じられて仕方なかった。・・・・
唯一いいと思ったのは、シンフォニー演奏だけ・・・」
(p11~12)

ここに、『仕舞』というのが出てきておりました。

堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)に
「ひさかたの・・・」と題する7ページの文があり、
そこにも、「仕舞」という言葉がありました。

「私は幼時を北国の廻船問屋で過したのであったが、
家の庭には大きな池があり・・・・この池の向う岸に
桜の巨木があって、満開の時には空一面が桜花で蔽われ、
池水にその花が映り・・・・・・・・

廻船問屋であったから、一族郎党には船頭や水夫など百人ちかい
人数がいて、それらの人々が春の花の宴を池畔で催していて、
まだ若かった私の母が、この歌、

   ひさかたの 光のどけき 春の日に
         しづ心なく 花の散るらむ

を朗誦しながら、色鮮やかな扇を手にして仕舞のような
舞を静かに舞っていたものであった。
従って幼時から私にとって古今集とは、この一首の歌に
収歛されていたのであった。」(p95~96)

このあとに、書画の展覧会で「ひさかたの・・」の書画を
「幼時から身に添ったものであったから」ということで買わずに、
別の書画を買ったあとに、堀田氏は気づいたとあります。
「私はわれながら愕然としたのであった。
本当は『ひさかたの・・・』の方が欲しかったのであった」。

あとには、外国での宴で、詩人たちが朗々と自国の詩を朗誦し、
堀田氏にも、その順番がまわってきた時のことを語っておりました。

「私にも、と求められたのであった。そこで私は、
怖めず臆せず、この、『ひさかたの・・』を母の流儀で朗誦した。」
(p98)

そののちも何回か、外国での朗誦の機会があったことを、
「ひさかたの・・」とともに印象深く述べられておりました。

うん。『母の流儀で朗誦した』というからには、
簡単な仕舞もしたのでしょうか。どうなんだろう(笑)。





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