大庭みな子の枕草子現代語訳は
講談社の少年少女古典文学館④にはいっておりました。
あとがきで、大庭さんは、ご自身の女学校の頃を、こう語っております。
「若い娘たちが出たり入ったりする部屋に流れる心理は、
ある意味では、女房のサロンを思わせなくもない。当時は
女学校そのものがエリート教育だったのだし、家からはなれた
ところにある学舎の寄宿舎に子女を送ることのできる家庭は
かぎられていた。・・・・
あたりを見まわしても、きらびやかなもの、はなやかなものは
なにひとつなかった。焼け野原の敗戦国には浮浪児と飢えた人
びとがあふれていた。・・・」
こうして、女学校時代に日本の古典を読んでいる彼女の
姿を反芻し、語られておられました。
さてっと、大庭みな子著「雲を追い」(小学館・2001年)に
『花の盛りの乙女らが』と題する文があり、気になりました。
「この半年わたしは脳梗塞と脳出血で半身不随となり
病院で身動きできない状態だ。するとどういうわけか
青春時代の友人たちが次々と見舞いに来てくれる。
わたしはこの旧友たちのおかげで大学を卒業できた。
わたしは非常にできない学生であったので、彼女たちの
助けがなければ毎日の宿題も学期試験もこなせない身分だった。
・・・・・
毎日出る膨大な量の宿題はあっと言う間にこなされ、学期試験の前日
には何人かの優等生たちが集ってこの劣等生を個人指導してくれた。
わたしはあほうのように口を開けて彼女たちの言うことに聞き惚れ、
言われるままに書き留めた宿題を提出したやっとのことで及第できたのだ。
その学校は当時としては珍しく、一定の線に達しない者は
容赦なく原級にとどめるという方針を取るので有名であった。
友人の中には入学以来引き続き9年間も卒業できない者も現実にいた。」
(p49)
私は大庭みな子著「津田梅子」をいまだ読んでおりません。
このあとに『サロン』という言葉が出てきますので、続けます。
「そのころのわたしの日々は華やかで、わたしの部屋は学寮髄一の
賑わっているサロンだった。狭い部屋に溢れるほどの仲間が集まり、
一晩中議論し、さらに夜中を過ぎてから明け方までまた何人かが加わった。
つまりこの部屋に来さえすれば誰かと気の利いた話ができるに違いない
という気分で、その人たちはこの部屋を訪問するのだった。・・・
わたしは毎晩ドアの表に『面会謝絶』という札をぶら下げておく
のだったが、その効果はほとんどなかった。
今病床を訪れてくれる旧友はそのときの仲間だ。
彼女たちは身体の不自由になったわたしを目の前に、
自分たちの青春を懐かしみに来るのだ。・・・・
誰の競争者でもなかったわたしは誰に羨(うらや)まれる
ことも憎まれることもなかった。たぶん今もそうなのであろう。
ときおり彼女たちはこんなことを言う。
『あなたは自分の好きなことをしていらっしゃるのだから仕方ないわね』
そう言ってわたしの持っている擦り切れた流行遅れのコートや
ハンドバッグをそっと触ってみるのだ。そして、わたしがまったく
関心もなければ、その効用も知らないブランド品やトレンディな品を
ふんだんにほのめかす話題をそっと引っ込め、
わたしに同情的な眼差しを投げかける。
『まあ、あなたは自由な生き方をしていらっしゃる方だから
こういうことにはご興味がおありにならないのね』
わたしはニッと笑い深くうなずく。・・・・」
はい。宿舎のサロン時代の延長のような会話が、
そのままに、つながっているのかもしれません。
ここでまた、清少納言の女房のサロンを思い描きます。
大庭みな子さんは「枕草子」のあとがきで
こうも書いておりました。
「わたしは『枕草子』のはなやかな宮廷生活にあこがれるというよりは、
宮廷の貴婦人、定子中宮といえど、清少納言といえど、おなじ人間の
欲望と夢をもつ人なのだということに安心した。そして、それをそのように、
描いた作者に敬服した。人をばかにしたり、いばったりするのも、
いまも昔もおなじである――。
戦争の時代、平和で豊かでぜいたくな時代、そうした中でも
人のおろかさと愛らしさは、少女が肌で実感した。
変わるものと変わらない風俗の中に生きる人間模様ということでもあった。
・・・・
前述したような寄宿舎の共同生活で、時代も場もちがう人の
書きつづった書物に埋没することが、むしろ自分だけの自由な場を
確保することでもあったのだ。千年の昔とわたしとの間にひろがる
想像力の世界こそはだれにも侵害されないプライヴァシーだった。
・・・」(~p315)
ということで、古典の磁場に吸い寄せられるように、
大庭さんの寄宿舎の部屋に集まった女学生仲間たち。
大庭みな子著「津田梅子」と、枕草子と、とりあえずは、
未読のこの2冊を本棚からとりだして身近に置くことに。