司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に
6ページの短文で「本の話」とあります。
はじまりは
「もう古い話で、江戸時代かなんぞのように思うが、
私が30代だった昭和31、2年のころである。
私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。
・・その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。
・・・一度だけ・・・たまたま自分の案が通って、
東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。」
こうして、新聞の連載小説をたのみにゆくのでした。
「・・・もっとも、ことわられた。
相手は、藤原寛人(ひろと)という名の気象庁の課長さんで
・・新田次郎さん(1912~80)のことである。
私より11歳上で昭和初期学校を出、早くに富士山頂の測候にも
従事し、山岳気象の第一人者であることも、私は知っていた。
また、戦時下に満州国気象台に勤務し、敗北とともに抑留され、
その間、夫人の藤原ていさんが、凄惨な引揚げ体験をされたことも、
ていさんご自身の体験記である『流れる星は生きている』で存じ
あげていた。
新田さんご自身は、私が訪ねてゆく前年、白馬山頂に50貫もの
花崗岩の風景指示盤を運ぶ強力を主人公にした『強力伝』という
作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力
をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の
小説家の歴史における異変だと思っていた。
・・・・・・・・・・
余計な話はなかった。なぜ自分はひきうけられないかという理由を
必要にして十分に話された。・・・・・
体系美を感じさせるような断わり方で、私はむろんひきさがり・・・
その後、20余年、お会いする機会もないまま、亡くなられた。その間、
私は読者でありつづけたから、べつにお会いする必要もなかった。」
このあとに、新田氏の「赤ちゃん」の逸話を聞いた話を披露
しているのですが、引用すると長くなるので、カットして
「去年のことである。
枕頭で本を読んでいるうちに、飛びあがるほどおどろいた。
・・・上質の文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ること
をわすれるうちに、この本(「遥かなるケンブリッジ」)の著書の
藤原正彦氏が、あの赤ちゃんではないか、とふとおもったのである。
あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏の息である
ことがわかった。巻末の略歴に、1943年のおうまれとある。
・・・・新京時代の藤原家の赤ちゃんの著作を、
70を越えた私が夜陰夢中になって読んでいたことになる。
この偶会のよろこびは、世にながくいることの余禄の一つである。
同時に、本のありがたさの一つでもある。・・・・」
(「本の話」1995年7月号)
ちなみに、題名には副題もあって
「本の話・・・新田次郎氏のことども」とあり、
この文の真ん中辺にも
「さて、この雑誌は、図書についてのサーヴィス雑誌だと
聞いている。私は、本ほどありがたく結構なものはない、
ということを大いに書こうとしていて、つい新田さんの
ことを思いだし、話がこんなふうになってしまった。」とあり、
本文の最後の一行はというと
「数奇というのは、読書以外にありうるかどうか。」
と締めくくられておりました。
はい。寒くなりましたが、いつのまにか読書の秋。