和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

清少納言の合宿期間。

2020-11-02 | 本棚並べ
本棚整理をして、でてきたのが、
大庭みな子著「津田梅子」(朝日新聞社・1990年)。
第一刷とあるので、私は新刊で買ったのだと思います。
きれいでした。装幀は田村義也。うん。これが曲者。
新刊価格で買って、装幀が素敵だと。
私は妙に慎重になり、時に読まずにあとまわしになる。
まるで、そのまま神棚に置いといたように、
ひらかれずに忘れておりました。

そのあとに、朝日文庫(1993年)も未読ながら買いました。
こちらの最後には「巻末エッセイ」として、鶴見俊輔の文。
はい。昨日は寝床に、この文庫をもっていきました。

うん。こうして読まずに寝せてあった本の読み頃には、
どこから読んでも味わえるという、私なりのルールがありまして、
要するに、はじめから読み始めると挫折するのがお決まりでした。
敷居の高い玄関からでなく、勝手口からはいる気軽さでもって
ページをめくります。

第10章「芽生え」をひらく。
そのはじまりは

「7歳でアメリカに渡り、11年の留学生活を終えて
帰国した梅子は18歳になっていた。・・・・

梅子は1929年に没し、わたしはその翌年1930年にこの世に
生を受け幼年期、少女期を長い戦争で過ごした。
1949年から1953年まで18歳から22歳まで小平町の津田塾大学で
学んだことが、この書を著す縁となった。・・・」

さてっと、大学での大庭みな子さんが語られておりました。

「・・・学生は個性を尊重されたが、厳格に能力主義的だった。
入学して1年くらいの間に、自分で自分の学力を判断し、
塾のやり方について行けない者は、己に適した別の道を
選ぶのがよい、去る者は追わないという雰囲気が強かった。

授業をサボることは実際にはほとんど不可能で、
度重なると落第するしかなかった。当時は学生数も少なく、
1教室20人以下の演習風なものが多かったし、
事実上1回でも休むと次の授業についてゆけなかった。
宿題は提出したものをきびしくチェックされ、
宿題、試験答案を含めて及第しなければ単位はとれなかった。
怠けた者は納めた授業料を無駄遣いするという考え方である。

わたしは親切な友人に恵まれて、宿題などよく助けて貰い、
落第すれすれのところで辛うじて卒業したが、個人主義的、
能力主義的な教室で、そのような友人に恵まれたのはどういうわけ
であったのだろうと、ずっとのちになってまでも不思議だった。

しかし、今になってよく考えてみると不思議ではなく、
わたしは周囲の人たちの多くがあまり興味を示さない
文学書に読み耽って、わけのわからない下手くそな
小説を書くために英語の勉強ができなかったのが、
彼女たちはそれをわたしの特殊な能力だと判断して、
助けてくれたのである。

つまり彼女たちは、心のどこかで創立者梅子の
個性尊重と個人尊重の気風をよく受けついでいた。
とにかく友人たちの助けでわたしはまがりなりにも
塾の卒業証書を手にすることができた・・・・」

うん。このくらいにして、
ひとつ、気になった箇所がありますので
そこも、最後に引用しておくことに

「女子大学出身者の多くが異口同音に呟く
共学の大学出身の女性への批評は

『彼女たちは男性に遠慮ばかりして、はっきりものを言わないわね』
という言葉である。女子ばかりのキャンパスでは女の子たちは
素朴に自分の個性でものを言い合い、派手な論争も繰りひろげるが、
共学のキャンパスの女子学生はひっそりと片すみで男子学生の
やり合うのを見物しているだけだという見方だ。
まあ、こういう意見は、わたし自身のその後の人生経験から判断すると、
ある程度当たっているように思う。・・・・・

何十年間の人生の数年間を同性だけで過ごす合宿期間がある
ことは決して無駄ではないのではあるまいか。
異性が周りにいない不自然さ、不自由さが異性の力が欲しい
と思う気持をひき起こし、人は1つの性よりは両性の力に頼る
ほうがよいと気づかせるなら、それもまた重大な意味を持っている。

そんなことで塾の卒業生であるわたし個人としては、
母校が女子の私塾であり続けることを願っている。」
コメント
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