和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

手紙の必要・不必要。

2020-11-10 | 本棚並べ
東日本大震災は、2011(平成23)年3月11日でした。
その時に、私が読んだ古典といえば、
吉村昭の「三陸海岸大津波」と「関東大震災」は、
いずれも、文春文庫で読みました。さらに
「方丈記」と、堀田善衛著「方丈記私記」を読む。

そういえば、と、その頃買った文庫を本棚から取りだしてくる。

寺田寅彦著「天災と国防」(講談社文庫・2011年6月9日発行)
この文庫解説は畑村洋太郎。

清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫・2011年6月10日発行)
ちなみに、「りゅうげんひご」と読みます。

寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫)
寺田寅彦著「地震雑感/津浪と人間」(中公文庫)
この2冊は、2011年7月25日発行で同じ日付でした。

あと本棚にあったのは、というと、
浅見和彦校訂・訳「方丈記」(ちくま学芸文庫・2011年11月10日)
この浅見氏の文庫は最後に「本書は『ちくま学芸文庫』のために
新たに書き下ろされたものである」とありました。

また同じ頃の堀田善衛著「方丈記私記」(ちくま文庫)では
「2011年11月20日第13刷発行」とありました。

はい。東日本大震災を思うにつけ、そのころには、
関連新刊本が出て、雑誌が特集を組まれているなかに、

震災の古典としての文庫が、このように
出ておりました。歴史を紐解こうとするには、
身近で、その手がかりを得ることができました。
ということで、今日は起きてから、とりあえず、
本棚から文庫の発行日を確認たというわけです。

ちなみに、昨日の寝床わきの本は鼎談本で、
『時代の風音』(UPU・1992年)。
堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿の3人による座談です。

堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社)には、堀田氏が
戦争中に『批評』という雑誌の同人になった。その話がでてきます。

「その『批評』に書いたのが『西行論』で、あのころから
日本中世に関心があったんでしょうね。

この間、司馬遼太郎さんと対談したときに、
彼が『おれは、まるで戦時中のおれへの手紙を書いて
いるようなものだ』といってましたが、
私もまったく同じで、後年の『方丈記私記』(1971年)とか、
『定家明月記私抄』(1986年)などは、結局、戦時中に
背負い込んだものを戦後になって作品化したものなんです。
・・・・」(p18)

はい。ここにあった司馬さんとの対談というのが
UPUの「時代の風音」の対談だと、目星をつけて、
寝床でパラパラとひらいたのでした。その箇所は
線をひいてあったので、すぐにわかりました。

  今回、そのすこし前が、印象に残り、
  その箇所を引用してみることに


宮崎】 司馬さんの8月15日は?

司馬】 私はその年の早春に、所属していた戦車連隊ぐるみで
満州から帰ってきて、敵の本土上陸にそなえるために関東地方に
いました。・・・・

出撃していくときは関東の老若男女ともども全滅の日ですから、
8月15日にはほっとしましたよ。これがまず第一に思ったことです。
泰淳さんと違って、日本人は亡びないと思ったし、むしろいい時代が
くると思た。

戦車隊は飛行機と同じで、構成員のほとんどが下士官なので、
私は中隊の下士官が動揺しないように何かしゃべっておけと言われて、
軍が解散するとき、学校の教室で話をしました。

下士官というのは職業軍人で、私よりも賢くて、職業知識は豊富で、
何事もやれる人々でしょう。年齢も上です。
だけれども、そのときは勇を鼓して、こう言いました。

『いままで祖国、祖国と言いすぎた。
 あなたたちは国に帰って、
 女房をもらって子供を生んで、
 天寿を全うすることだけを考えよ』 ・・・」(p179)


  うん。ここまでで私は満腹です。
  けれど、次も引用しておきます。
  堀田氏の指摘したその箇所です。


司馬】  二つめに思ったのは、
なんでこんなばかな国に生まれたんだろう、ということでした。
指導者がおろかだというのは、22歳でもわかっていました。
しかし、昔の日本は違ったろうと思ったんです。
その昔が戦国時代なのか、室町時代か、明治なのか知りませんが、
昔は違ったろうと。しかし22歳のときだから、日本とは何かなんぞ
わからない。物を買いはじめてからは、すこしずつわかってきたこと
どもを、22歳の自分に対して手紙を出しつづけてきたようなものです。

堀田】 それは司馬さん、私なんかも完全に同じですよ。
これまでやってきた仕事は、ずっと戦時中の自分への手紙を
書いていたようなものですよ。私の『ゴヤ』も、『方丈記私記』も
『定家明月記私抄』も戦時中に考えたテーマなんですね。
・・・・・・

司馬】 いまの人は手紙を書く必要がないから、
そのぶんだけ前へ進むでしょう。だから、
ひじょうに幸いだと思うんですね。    」(p180)


  はい。つぎに宮崎駿氏が語っております。
  最後に、そちらも引用しておくことに。


宮崎】 私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、
日本は四等国でじつにおろかな国だったという
話ばかり聞きました。
 ・・・・・・・・・・・
ですから、日本の景色を見ても、水田を見ても、
咲き乱れる菜の花畑を見ても、みんな嫌な風景に見えました。
嫌いだったんです。それを回復するためにえらい時間がかかりました。

堀田】 それはやっぱり手紙が必要だったんだな。

宮崎】 『アルプスの少女ハイジ』というテレビシリーズを
作るために、スイスに行って帰ってきましたら、
日本の景色のほうが自分が好きだったことに気づいたんですね。
ずいぶんまわり道をせざるをえませんでした。  」(p181)





コメント (3)
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