もともと、本は最後まで読めなかったので、
その癖は、もう治らないとあきらめてます。
無理して、最後まで読んでも頭に残らない。
その癖して思うのは、贅沢な読書はしたいでした。
ところで、『宮澤賢治語彙辞典』というのがあります。
こちらは、宮澤賢治語彙辞典と、新宮澤賢治語彙辞典、
さらには、定本宮澤賢治語彙辞典(2013年)まである。
うん。何が何やらわからないままに、定本の辞典は、
一万円以上するので論外ということにして、ここは、
古本で「新宮澤賢治語彙辞典」を買ってみました。
ページ数は、本文が930ページ+索引139ページ=1069ページ
最後の方には、宮澤賢治語彙辞典の際の序も引用されておりました。
その旧版序文「本辞典を利用される方々へ」のはじまりを引用してみます。
「詩人、作家としては、日本ではもちろん世界的にもおよそ類例がないと
思われる多種多様の語彙の駆使者、宮澤賢治 ・・・・
その多彩さは、しかし、よく使われる『豪華絢爛』、『言葉の魔術師』、
といったニュアンスとは一味ちがった、
また古典派、教養派のもつ言語の多彩さとも一味も二味もちがった、
それはなんと言ったらよいのか、
彼らの書物臭や書斎の雰囲気を、感覚の偏差や文学臭を、
まったく剥ぎとったと言ったらよいのか、はだかの言葉たちの
無垢の実在感、即物性、リアリティー、軽快さ。
例えば、天文、気象、地学、地理、歴史、習俗、方言、地名、人名、哲学、
宗教、農業、化学、園芸、生物、美術、音楽、文学・・・等々の諸分野の
名詞が、ごく自然に軽やかに繰り出されてきて・・・・・
読者の意表をつく軽快さとうらはらに、やはり意表をつく
それら名辞の難解さに、非常にしばしば眩惑されながら、
この謎にみちた賢治世界の、いわば言語地理を、
誰にもわかるような辞典のかたちにして作れないものかと
私が思案しはじめたのは、もう20年も前のことである。・・・」(p922)
はい。これが「宮澤賢治語彙辞典」の序文のはじまり。
次に、「新宮澤賢治語彙辞典」の序のはじまりを引用。
「・・初版の刊行は1989年10月であった。ほぼ10年ぶりに、
この「新宮澤賢治語彙辞典」は刊行されたことになる。
・・10年間・・思えば旧版刊行の翌日から、
私は不眠症に襲われ、ずっと安定剤の世話になりつづけた。
項目や説明の不備、不適切、錯誤、等々への不満足がしだいに募り、
すぐにでも版元に絶版を申し入れたいほどであった。
いっとう悔やまれたのは、一項につき幾通りもの生原稿を重ね、
採用最終稿を上にして渡し、あとは校正まですべて編集部に
委ねてしまったという私の無責任であった。・・・・・・・・
1999年3月 原子朗 」
ちなみに、旧版序文には、こんな箇所もありました。
「例えば賢治得意のオノマトペの数々、
それらが作品の中で果たしている
音とイメージの感覚的役割をコメントしようと
準備していた。そして他の形容詞や副詞等の取扱いと
同じように、その頻度や種類、分布などを論じる工夫を
私は考えていた。
なんとかやりぬく自信もあったが、やはり断念した。
未練も残ったものの、それらはまた別の機会にゆずることにした。」(p924)
「新宮澤賢治語彙辞典」をひらくのですが、こちらでも、
宮澤賢治の、オノマトペは省かれておりました。残念。
はい。新・旧の辞典の序文を読んで、私はもう満腹です。
後はその都度、辞典を活用していけるように心がけます。