「賢治の教師生活は大正10年12月から同15年3月まで、
4年4か月続けられた。」
( p208 萬田務著「孤高の詩人宮沢賢治」新典社・1986年 )
この萬田氏の本には、すこしあとに
「賢治の妹たちは
『兄のようにたえず何かを考えている人間はきっと長つづきはしまいと思った』
(堀尾「年譜宮沢賢治伝」117頁)らしい・・・」(p213)
年譜をひらけば、
大正15年・昭和元年(1926年)30歳
3月31日花巻農学校依願退職・・・
昭和8年(1933年)37歳
9月21日午後1時半死亡。
この萬田氏の本には、こんな指摘がありました。
「・・生徒たちとの交流を扱った
『 台川 』『 イーハトーボ農学校の春 』『 イギリス海岸 』
等の随筆的な作品がある。 」(p171)
はい。この3つの作品が読みたくなります。
萬田氏の文をつづけます。
「『台川』は生徒を引率して遠足に出かえた折のことが素材になったものである。」
「『イーハトーボ農学校の春』も実習風景を扱ったものである。
明るい春の太陽がいちめんに降りそそぎ、
『 太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、
ひっきりなしにごうごうごうごう鳴って 』いる。」
「 教師としての歓びあふれる体験が書かれていることは
『台川』と変わりはない。異なるのは
『台川』における教師の独白が、純然たる内的独白であったのに対して、
『イーハトーボ農学校の春』のそれは生徒への語りかけになっていることである。
さらに後者は、楽譜が挿入されたことによって
音楽のリズムとことばのリズムがひとつに溶け合って、
それがいわばミュージカル的効果を生み出している。・・・ 」
「 『イギリス海岸』も夏休みの15日の農場実習の間に、
『私ども』が『イギリス海岸』と命名したところで、
生徒たちと遊んだ体験を扱ったものである・・・・
この作には・・・・
物事に対して知的好奇心をもつならば、
それまで及びもつかなかったような歓びが発見でき、
さらに現前の世界もいっそう広がるのだということである。
『猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸』を
イギリス海岸と命名した理由が詳細に書かれているのもそのためである。
農学校の生徒といえども、農業に興味をもっているものばかりだとはいい難い。
否むしろ、親に薦められて厭々入学した生徒のほうが多いだろう。
そんな生徒たちに少しでも農業に対して興味をもたせることができたら、
という希いが、この作品を書かしめたと思われる。 」( ~p173 )
あらたに、初心者の私が読んでみたい作品が紹介されておりました。