紀野一義が、詩集『春と修羅』の『序』を
引用して、指摘されている箇所があります。
「 『 これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
・・・・
ここまでたもちつづけられ・・ 』
てきたという。この『序』の書かれた
大正13年1月20日から通算して二十二箇月といえば、
大正11年3月20日ということになるが、
このあたりは年譜を見ても特に注目すべきことはない。
ただ、この大正11年の1月に、『屈折率』『くらかけ山』
など、『春と修羅』第一集の詩作が始まっており、
童話では『水仙月の八月』が書かれ、
11月には妹とし子が死んでいる。・・・ 」
( p18 「賢治の神秘」佼成出版社・1985年 )
はい。堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)の
大正11年2月に
「 農学校のために精神歌を作詞、川村悟郎が作曲をした。
・・・・・・
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、卒業式には、
りっぱに歌いました。校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように
言いましたが、宮澤さんは・・遠慮して校歌にはしませんでした。
―――堀籠文之進談 ・・・ 」( p162~163 )
はい。みんなで卒様式に歌ったとあります。
はじめて、みんなで歌った時が、校歌の歌い初めだとすると、
なんだか、私の思いつきは、『春と修羅』の『序』は、
賢治の頭のなかに、校歌のことがあったのじゃないのか?
ということでした。
ちなみに、精神歌は、4番まであり、
その4番の最後の2行は
『 ケハシキ旅ノナカニシテ
ワレラヒカリノミチヲフム 』 とあります。
うん。これじゃ、校歌にしてくれという校長先生の頼みを
すんなり了承するわけにはいかない言葉の気がしてきます。
もうひとつ、新潮文庫の『注文の多い料理店』には、
天沢退二郎の文のなかに、大正13年12月1日発行の
『イーハトヴ童話注文の多い料理店』の広告ちらしが引用されています。
「売れ行きは芳しからず、この1冊で終りとなった。その広告ちらしに
掲載された次の文章は、まちがいなく賢治自身の執筆とみられ、
重要な文献なので全文を引いておく。 」( p335 新潮文庫 )
この広告ちらしのなかに、こんな箇所がありました。
「 この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。・・・
この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。 」
はい、このあとに4か条書かれているのですが、ここでは最初の箇所を引用。
「 🈩 これは正しいものの種子を有し、
その美しい発芽を待つものである。・・・・ 」
うん。ここで宮澤賢治が作詞した『精神歌』の1番が思い浮かびます。
「 日ハ君臨シカガヤキハ
白金ノ雨ソソギタリ 」
1番は4行ありました。このあとの最後の2行はというと、
「 ワレラハ黒キ土ニ俯シ
マコトノ草ノタネマケリ 」
はい。どなたかが言っておられるかもしれませんが、
それはそれで、かまわないわけですが、
ここで、私が指摘してみたいのは、
『精神歌』と『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』とは、
心象スケッチのかかせないつながりがあるのだろうなあ。
そんなことを思いながら、ひとりユーチューブで精神歌を聴きます。