日本図書センターの「近代作家研究叢書86」(1990年)が
森荘巳池著「野の教師 宮沢賢治」でした。復刻版で函入り。
目次のつぎをひらくと、
右ページに「花巻農学校精神歌」の歌詞。
左ページには、川村悟郎作曲のその楽譜。
本の最後の方には、「ある対話」というページがありました。
そこに、堀籠文之進氏と著者の森氏との対談がありました。
森】 賢治が、学校にあらわれたときの感じはどうでした。
堀籠】 洋服を着て丸坊主でした。・・・
宮沢さんは、なかなか物固くて、
いってみれば和尚さんのような感じでした。・・・
宮沢さんが、岩崎・・さんのあとをついで、
化学、数学、英語、農業実習、稲作。
わたしは、農業、園芸、英語など・・・ ( p193~194 )
堀籠】 古い校舎では式があると、花巻女学校からオルガンを借りてきました。
・・そのオルガンを年を越しても返さないで、
宮沢さんもひいていましたが、オラホ(自分の方)で使うから
返してくれと催促されてたりしました。
賢治さんから、かたい感じがなくなったのは、
オルガンをひいたり、髪を伸ばしてポマードをつけたり、
作曲をしはじめてからです。
森】 学校で歌ったり作曲したりしたのですか。
堀籠】 やっておりました。精神歌の作曲者川村悟郎さんは、
高等農林の生徒で・・悟郎さんは、バイオリンをひきました。
借りたオルガンは職員室においてひきました。
春の休みで川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、
ああでもない、こうでもないと作曲をしておりました。
ですから私たちは、できあがらないうちから、
精神歌をきいていたわけです。題は、はじめはありませんでした。
曲ができ上りますと、放課後、音楽の好きな生徒をのこして
歌わせました。畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
卒業式には、りっぱに歌いました。・・・・
題はあとで『精神歌』とつけました。
油がのったとでも言うのでしょうか。
宮沢さんは応援歌、行進歌、農民歌、剣舞の歌など、
どんどん作曲して生徒に歌わせましたので、
学校は、すっかり変わってしまって、
おどろくほど生き生きとなってきました。
生徒はよろこんで精神歌や応援歌を歌いました。 ( ~p193 )
この堀籠氏の精神歌の箇所は、
堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)や
境忠一著 「評伝 宮澤賢治」(桜楓社)に
部分引用されていたので、気になっておりました。
今回、対話全体が読めて私はよかった。
たとえば、そのあとに、森氏が語っているのでした。
森】 県下の中等学校の陸上競技大会が花巻で開催されたことがありましたが、
わたしたちも森岡中学校の応援団になって、その大会に出かけました。
会場には、どこの学校の応援団もきていてさかんに
校歌や応援歌を歌っているのをきくわけですが、
ひときわ目だって、変った歌を歌う応援団がありました。
生徒が少ないくせに意気天をつく一団でした。
これが花巻農学校だったのです。
あまり変った歌なので今でも記憶にあります。
・・・精神歌も、いまにして思えばたしかに
『精神歌』と題をつけるほかにない感じの歌でした・・・ ( p198 )
はい。こう語っている森氏が
ご自身の本、森荘巳池著『野の教師 宮沢賢治』の
はじまりに、『精神歌』の歌詞と楽譜とを置いていたのでした。