はい。まえがきと、あとがきと、それしか読んでこなかった
私みたいな者には、その箇所が充実した要約だったり、
問題提起だったりするのは、なんだか得した気分になります。
古本で、山極寿一の本が安かったので購入。
『はじめに』だけを読むのでした(笑)。
「 今、わたしたちの暮らしはとてもいそがしくなっている。
それは世の中にたくさんの情報があふれていて、それを
取り込もうとして人々がいつもスマホやインターネットに
向かい合っているからだ。
まるで人とつきあうことはそっちのけで、
スマホばかりつきあっているように見える。
でも、たくさんの情報を集めても、
たくさんの人と仲よくなれるわけではない。
むしろ、まだ顔も知らない人から相談をもちかけられたり、
いろんな誘いがあったりして、目の前のことができなくなる。
さまざまな情報が乱れ飛ぶので、なにを信用していいかわからなくなり、
不安にかられる。知らない人からやっていることを非難されたり、
自分の行動をどこかでだれかが見ているような気がして不安になり、
落ち着かなくなる。
・・・・情報は変わらないけれど、生き物はつねに成長して
変わっていく。今日の自分は昨日の自分ではないし、
明日もちがった自分になるはずだ。好みも変わるし、
友達との関係も変わる。そのなかで、自分というものを
保ち続けるのはなかなか難しいことなのだ・・・・ 」
すこし飛ばして、そのあとにこんな箇所がありました。
「 言葉は世界で起こるいろいろな出来事を抽象化し、
簡潔に伝えるための道具だ。・・・・
でも、言葉は情報にはならないものをたくさんそぎ落としている。
たとえば、怒りや悲しみにはいくつもの種類や程度の差があるのに、
それは言葉ではなかなか表現できない。
怒っているように見えても、
ほんとうはだれかに助けてもらいたがっていたり、
けんか腰に見えても仲直りしたがっているような態度は、
その場に居合わせなければ理解することが難しい。
しかも、人間は人間だけで暮らしているわけではない。
虫や鳥や動物と、植物とだってさまざまにつきあいながら
日々の暮らしを豊かにしている。
言葉を使わずに、イヌやネコと、ときには
植木鉢の花と会話することもある。
それはたがいに生き物だからこそ、感じ合うことのできる
コミュニケーションなのである。
そして、人間が自分を他人の反応によって自覚するように、人間は
ほかの生き物の反応によっても人間であることを意識できるのだ。
とくに、人間とはいったい何者であるかを知るためには、
人間以外の生き物とつきあってみる必要がある。
ネコを定義するためにはネコ以外の動物を知らなけらばならないように、
人間を定義するためには人間との境界域にいる動物を知ることが
不可欠になる。
そこでわたしは、ゴリラの国に留学することにした。・・・ 」
はい。本文は、そのゴリラのお話になっているようですが未読。
山極寿一著「人生で大事なことはみんなゴリラから教わった」(家の光協会)