宮沢賢治の「イギリス海岸」。そのはじまりは
「夏休みの15日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、
2日か3日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。
北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、
北上山地を横ぎって来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、
少し下流の西岸でした。 」
よその学校では、どうだったかも書かれておりました。
「 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に15日も生徒を連れて行きましたし、
隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。
ですから、生れるから北上の河谷の上流の方ばかり居た私たちにとっては、
どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。 」
「それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。」
として賢治特有の蘊蓄がならべられゆきますが、ここでは大胆にカット(笑)。
「・・それにも一つここを海岸と考へていいわけは、ごくわづかですけれども、
川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退いたりしたのです。
それは向ふ側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるために
できるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれが
この泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、・・・
とにかく日によって水が湖のやうに差し退きするときがあるのです。 」
はい。もう少し引用しておきます。
「 そうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終り
あとは31日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、
私の方から云へばまあそうです。
農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、
まあ一段落といふそのひるすぎでした。
私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。・・・ 」
「 ・・・『ああ、いいな。』私どもは一度に叫びました。
誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。
殊に行けたら・・・フランスかイギリスか、
さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。
私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、
その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。
全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。
その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、
泥岩の向ふのはづれは高い草の崖になって
木もゆれ雲もまっ白に光りました。・・・ 」
うん。最後の箇所も引用しておきます。
「・・今日は実習の9日目です。朝から雨が降ってゐますので
外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ぼうと思ふのです。
これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。・・・
麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。
百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。
この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。
けれども全くそんな風に考へてはすみません。
私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。
( 1923、8、9 ) 」
( p101~118 「新修 宮沢賢治全集 第14巻」筑摩書房・1990年 )