鄭大均(てい・たいきん)著「隣国の発見 日韓併合期に日本人は何を見たか」
(筑摩選書・2023年5月)の序文から引用。
「・・ポスト〇〇ニズムやポスト〇〇リズム隆盛の今日、
研究者やジャーナリストたちは一見、過去から学んでいる風を装い、
少数者には大いに関心があると言う。
しかし彼らは今日を生きる自分たちを至上のものとする人々であり、
一度(ひとたび)あるものに『侵略者』や『植民者』の烙印を押すと、
それをなかなか変えようとしない頑固者たちである。
そんな人々の記したいびつな日本統治期論などに比べると、
この時代に朝鮮の地に住んでいた日本人が書き残した朝鮮エッセイには
人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のするものが少なくない。
本書で紹介したいのはそんな良質なエッセイである。・・ 」(p13~14)
はい。第五章まであります。こりゃ夏の読書にはうってつけかも。
ここには、第五章の挟間文一(はざまぶんいち)のはじまりだけ紹介。
「大分県北海部郡佐賀市村に生まれた
挟間文一(1898~1946)は1923年長崎医科大に入学、
第一回生として卒業すると助手としてそのまま薬物教室に残り、
1930年には同大助教授に就任する。
後にノーベル生理学・医学賞の候補となる研究が始まるのは
この時期のことで、挟間は研究室が英国から購入したケンブリッジ社製の
弦線電流計を用いて臓器の動作電流曲線を描写する作業に取り組み、
それに成功し、成果をドイツ語論文で記し、多くはドイツの科学専門誌
に掲載されるようになる。
挟間はしかし1935年、京城医学専門学校への転任を余儀なくされる。
当時、長崎医科大で発覚した博士号学位売買事件の責任をとって辞職した
主任教授の後任として長崎に赴任することになった京城医専の教授が、
助教授職にあった挟間の留任を望まなかったためである。
挟間は不本意ながら京城の地に向かうが、
発光生物に関する研究は続けられ、やがて朝鮮をテーマにした
多くのエッセイが記されるようになる。・・・・・
筆者は偶然『朝鮮の自然と生活』の本を入手し、
旅する科学者の姿に斬新な印象を受けたが、
戦後この人の朝鮮エッセイに触れたものが
だれもいないことに不思議な気持ちがした。・・・・」(p226~227)
このようにはじまっております。
あらためて、序にある
『 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のする 』
という言葉を反芻しながら、この夏の読書とします。