宮澤賢治の年譜をみると、
1921(大正10)年25歳
12月3日稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。
1922(大正11)年26歳
2月 農学校のために精神歌を作詞
川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲した。
これは、中公文庫「年譜宮澤賢治伝」堀尾青史著・1991年から引用。
その次のページには、堀籠文之進談として、こうあります。
「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
こうでもないと作曲しておりました。ですから私たちは、
できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。
題ははじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。
畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで
練習していましたが、3月の式に間に合うように、
全部の生徒に歌わせ、卒業式には、りっぱに歌いました。
校長さんは、宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、遠慮して校歌にはしませんでした。
・・・・ 」( p163 文庫 )
ちなみに、ちくま文庫「宮沢賢治全集4」には
「農学校歌」と題して掲載されております(p318~319)
これは、文庫の間違いなのでしょう。
ユーチューブで「精神歌」と検索すると、その歌が聞けます。