新潮文庫の竹山道雄著「ビルマの竪琴」の最後には
荒城の月からはじまる歌詞が13曲。楽譜もついておりました。
本文の、はじまりの第一話の題は『うたう部隊』とありました。
令和5年の月刊Hanada9月号の平川祐弘氏の連載
『詩を読んで史を語る』は第15回目で題は「日本の小学唱歌」。
その文をめくっていたら、『ビルマの竪琴』がでてきておりました。
平川氏の文は、注釈も、それだけで楽しめるのがありがたい。
『ビルマの竪琴』に関連する文の注釈が目を引きました。以下引用。
「私が・・教えた学生三井憲一の父君は大正10年生まれ。
招集され各地を転戦した。生前、戦争について家族に語ることは
一切なかったが、唯一の例外は昭和31年、憲一が小学校1年の時、
父に連れて行かれ映画『ビルマの竪琴』を観た。それだけであった。
その父が急逝した時・・・追悼の席で戦友4名が
≪ 山砲兵第51聯隊歌 ≫を歌い、その作曲が父であったと
知らされて、雷に打たれた如く成り、涙がとまらなかった。
父三井道は信州の小学校卒業後、すぐに紳士服仕立ての店で働いた。
音楽は好きで仕事をしながらレコードは聞いていたという。
作詞は部隊長の桑原忠博、楽譜は存在しないが、
戦友会で歌われる曲を録音して憲一が音楽の先生にお願いして
五線譜に復元・・・『うたう部隊』は竹山の物語の歌のほかにも
このような形で存在したのである。 」( p321 )
新潮文庫『ビルマの竪琴』には、本文のあとに
「ビルマの竪琴ができるまで」(昭和28年)という14ページの文があります。
最後に、そこからも引用しておくことに。
「・・モデルはないけれども、
示唆になった話はありました。こんなことをききました。
一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、
隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、
兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。
いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、
みな元気がよかったので、出迎えた人たちが
『 君たちは何を食べていたのだ 』とたずねた。
( あのころは、食物が何よりも大きな問題でした )
鎌倉の女学校で音楽会があったときに、
その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。
『 あれが、その隊長さん―― 』とおしえられて、
私はひそかにふかい敬意を表しました。
日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、
私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。 」( p195 )