和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

歌う部隊。

2023-07-29 | 重ね読み
新潮文庫の竹山道雄著「ビルマの竪琴」の最後には
荒城の月からはじまる歌詞が13曲。楽譜もついておりました。

本文の、はじまりの第一話の題は『うたう部隊』とありました。

令和5年の月刊Hanada9月号の平川祐弘氏の連載
『詩を読んで史を語る』は第15回目で題は「日本の小学唱歌」。
その文をめくっていたら、『ビルマの竪琴』がでてきておりました。
平川氏の文は、注釈も、それだけで楽しめるのがありがたい。
『ビルマの竪琴』に関連する文の注釈が目を引きました。以下引用。

「私が・・教えた学生三井憲一の父君は大正10年生まれ。
 招集され各地を転戦した。生前、戦争について家族に語ることは
 一切なかったが、唯一の例外は昭和31年、憲一が小学校1年の時、
 父に連れて行かれ映画『ビルマの竪琴』を観た。それだけであった。

 その父が急逝した時・・・追悼の席で戦友4名が
 ≪ 山砲兵第51聯隊歌 ≫を歌い、その作曲が父であったと
 知らされて、雷に打たれた如く成り、涙がとまらなかった。

 父三井道は信州の小学校卒業後、すぐに紳士服仕立ての店で働いた。
 音楽は好きで仕事をしながらレコードは聞いていたという。

 作詞は部隊長の桑原忠博、楽譜は存在しないが、
 戦友会で歌われる曲を録音して憲一が音楽の先生にお願いして
 五線譜に復元・・・『うたう部隊』は竹山の物語の歌のほかにも
 このような形で存在したのである。     」( p321 )


新潮文庫『ビルマの竪琴』には、本文のあとに
「ビルマの竪琴ができるまで」(昭和28年)という14ページの文があります。
最後に、そこからも引用しておくことに。

「・・モデルはないけれども、
 示唆になった話はありました。こんなことをききました。

 一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、
 隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、
 兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。

 いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、
 みな元気がよかったので、出迎えた人たちが
 『 君たちは何を食べていたのだ 』とたずねた。
 ( あのころは、食物が何よりも大きな問題でした )

 鎌倉の女学校で音楽会があったときに、
 その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。
 『 あれが、その隊長さん―― 』とおしえられて、
 私はひそかにふかい敬意を表しました。

 日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、
 私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。 」( p195 )


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