まるっきり読んでいない本の癖して、
題名だけが気になる本ってあります。
最近になって思い浮かぶのが
丹治昭義著「宗教詩人宮澤賢治」(中公文庫1996年)。
うん。親鸞さんからの連想でした。
親鸞について、増谷文雄氏の対談の言葉に
「たとえば『和讃』のいちばんはじめですな、
『讃阿弥陀仏偈和讃』ですね、これは全部原文がありますですね。
それを親鸞はなんとかやわらかくしようとしながらも、原文の
大事なところは原文のままに生かして『和讃』をつくっているのですね。
・・・・・・
たとえば『智慧光明不可量』なんていう原文がありますね。
それを『智慧の光明はかりなし』と訳しておる。
あるいは、『法身光輪遍法界』とあると、
『法身の光輪きわもなく』としています。
それはもうほとんど読み下しなのです。
むずかしい言葉を使っておられるのですが、
それは原文をできるだけ生かそうとしておられるようですね。」
( p10~11 「日本の思想3 親鸞集」別冊・筑摩書房
この箇所やらなにやらで、私に思い浮かんだのは、
宮澤賢治教諭がつくった農学校の「精神歌」(大正11年)。
それは歌詞が4番までありました。
ここでは、各1~4番の、はじまりとおわりの行とを引用。
1 日ハ君臨シカガヤキハ ・・・ マコトノクサノタネマケリ
2 日ハ君臨シ穹窿ニ ・・・・ 気圏ノキハミ隈モナシ
3 日ハ君臨シ瑠璃ノマド ・・・ 白亜ノ霧モアビヌベシ
4 日は君臨シカガヤキノ ・・・ ワレラヒカリノミチヲフム
もどって、最初に引用した対談での最後の方で、増谷文雄氏が
指摘されていた言葉がありますので引用したくなります。
野間宏氏が『極楽というようなものもあってもなくてもいいんだという、
そこの、つまり強さですね。その極楽という一つのフィクションという
のかな・・・』
これを引き受けて、増谷氏は語っておりました。
『あなたが極楽をフィクションといってしまわれると
私どもは非常に楽になるのです。仏教の中に身を置いておりますと、
極楽はフィクションだなんていう言葉は容易に使えないです。・・・
・・・・・・
密教的フィクションの場合は、これはいわゆる地上だけでといいますか、
高きところのものを仰がずしてできますね。
親鸞の場合には大きなフィクションが、光り輝くものがあったわけですな。
無量光という光を考えるのが親鸞の場合の一つの決め手でございますな。
・・・・・
親鸞にとってはフィクションというのは光として
受け取られていたような気がするのですね。 」(p15)
はい。ここで本の題名が思い浮かんできたのでした。
それが、丹治昭義著「宗教詩人 宮澤賢治」でした。
副題には「大乗仏教にもとづく世界観」とあります。
はい。次はこの中公新書を開いてみたくなりました。