筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」を編集した
増谷文雄氏のことが気になる。
はい。親鸞集は読み進めていない癖して、脱線します。
増谷 文雄 (ますたに ふみお、 1902年 2月16日 - 1987年 12月6日)。
「増谷文雄著作集11」(角川書店・昭和57年)のはじまりは
「道元を見詰めて」でした。そのはじめのページを引用。
「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
もしくはその流れを汲む曹洞宗門にたいしては、
あきらかに門外の漢である。
だが、門外にありながらも、
わたしはたえず道元禅師を見詰めてきた。・・・
いったい、わが国の生んだすぐれた仏教者たちのなかにあって、
今日すでに宗門の枠をとおく越えて、その徳を慕い、あるいは、
その思想と実践を研究するということのおこなわれている仏教者
としては、親鸞聖人と、そして道元禅師とをあげることができる。
・・・・ 」(p11)
はい。このようにはじまっておりました。
私は講談社学術文庫の増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻を
持っているのですが、いまだ数冊をパラパラめくりの初心者。
増谷氏は、親鸞が「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」とを
成立させたのが76歳の春のことと指摘されておりました。
そういえばと、講談社学術文庫の「正法眼蔵(一)」の
はじまりには、増谷松樹の「刊行に当たって」という文。
そのはじまりを引用することに。
「四半世紀ほど前のことである。
父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、はるばる訪ねてきた。
私は驚いた。父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
机の前に正座して原稿を書いているもの。そして
それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。
その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
『 正法眼蔵 』を完成したところであった。
父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は現代語訳であった。
仏教を現代人のものとすることを、課題としたからである。・・・ 」
なんてこった。そういう方がおられるのに、その方の本を持っているのに、
ちっともはかどらず、読み進めていない私がこうして、ここにおります。