和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

76歳の、親鸞と増谷文雄。

2023-10-16 | 古典
筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」を編集した
増谷文雄氏のことが気になる。
はい。親鸞集は読み進めていない癖して、脱線します。

増谷 文雄 (ますたに ふみお、 1902年 2月16日 - 1987年 12月6日)。

「増谷文雄著作集11」(角川書店・昭和57年)のはじまりは
「道元を見詰めて」でした。そのはじめのページを引用。

「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
 従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
 もしくはその流れを汲む曹洞宗門にたいしては、
 あきらかに門外の漢である。

 だが、門外にありながらも、
 わたしはたえず道元禅師を見詰めてきた。・・・

 いったい、わが国の生んだすぐれた仏教者たちのなかにあって、
 今日すでに宗門の枠をとおく越えて、その徳を慕い、あるいは、
 その思想と実践を研究するということのおこなわれている仏教者
 としては、親鸞聖人と、そして道元禅師とをあげることができる。
 ・・・・   」(p11)

はい。このようにはじまっておりました。
私は講談社学術文庫の増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻を
持っているのですが、いまだ数冊をパラパラめくりの初心者。

増谷氏は、親鸞が「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」とを
成立させたのが76歳の春のことと指摘されておりました。

そういえばと、講談社学術文庫の「正法眼蔵(一)」の
はじまりには、増谷松樹の「刊行に当たって」という文。
そのはじまりを引用することに。

「四半世紀ほど前のことである。
 父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、はるばる訪ねてきた。

 私は驚いた。父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
 机の前に正座して原稿を書いているもの。そして
 それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。

 その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
 『 正法眼蔵 』を完成したところであった。

 父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
 多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は現代語訳であった。

 仏教を現代人のものとすることを、課題としたからである。・・・ 」


なんてこった。そういう方がおられるのに、その方の本を持っているのに、
ちっともはかどらず、読み進めていない私がこうして、ここにおります。
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