筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」(編集:増谷文雄・1968年)は、
親鸞への格好の水先案内書となっていて、なんともありがたいのでした。
たとえば、はじめに「正信念仏偈」をもってきております。
それについては、こういう指摘をされておりました。
「親鸞の主著は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、
つぶさには『顕浄土真実教行証文類』である。
・・『文類』とは、諸経の要文を抜萃し編集したものをいう
ことばであって、この著もまた、念仏のおしえに関する要文
を抜きあつめ、その領解と讃嘆のためにしたものであって、
その故にこそ後世この著をもって浄土真宗の根本聖典とするのである。」
このあとに、増谷氏はこう書いておられます。
「その著をそのままここに採りあげなかったのはほかでもない。
それら諸経の要文の羅列は、かならずしもそのまま
親鸞の思想とはいいがたいからであり、むしろ、より重要なのは、
それらを親鸞がいかに領解し、いかに讃嘆して、
自己の思想を形成したかということでなければならない。
しかるに、親鸞は、筆をすすめて『行巻』の末尾にいたり、
ふかい領解とあふれる法悦とを結んで、百二十句にわたる韻文を
つらねている。題して『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』という。
わたしがいまここに、親鸞の思想と信仰の骨格として、
まず採りあげようとするものはそれである。・・・・ 」(p38)
このあとに、『正信念仏偈』が7ページにわたって載っております。
ページの上半分には、原文に句読点をほどこし、
ページの下半分には、増谷文雄氏による現代語訳。
はい。数行ごとに、現代語訳をみていると、
私なりに魅かれる箇所がありましたので、そこを引用。
まずは、原文。そして現代語訳
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
けがれおおき悪しき代に生をうけしもろびとたちは、
釈迦牟尼如来のまことなることばを信ずべし。
よく一念、本願をよろこぶ心の発(おこ)らんには、
煩悩を断つことなくして、よく涅槃をうるなり。
そこから6行あとには、こんな箇所。
譬へば日光の雲霧に覆はるれども、
雲霧の下、明らかにして闇(くら)きなきがごとし。
たとえば日の光の、雲と霧に覆わるれども、
雲と霧のしたは、なお明るくして闇からざるがごとし。(p40)
うん。ここも分かりやすかったと思えた3行を最後に引用。
我もまたかの摂取の中にあれども、
煩悩眼(まなこ)を障(さへ)て見ずといへども、
大悲倦(ものう)きことなく常に我を照らしたまふといへり。
われもまたかの仏の救済の御手のなかにありながら、
煩悩まなこを障(さ)えて見ることを得ずといえども、
大悲はものうきことなく、つねにわれを照したもうといえり。 (p44)