徒然草第39段の解説で興味を惹かれたのは、
安良岡康作(やすらおか・こうさく)著「徒然草全注釈上巻」(角川書店)でした。その説明の最後に、西尾實著「作品研究つれづれ草」(学生社・1955年)からの引用があって、それならばと、西尾實氏のこの本をひらいてみる。
はい。安良岡氏が引用していた箇所がありました。
徒然草第39段を、西尾氏は3つに分けて説明をしておりました。引用。
「①では、ある人の問と上人の答とを具え、
それに対する著者の感歎語を加えているのに、
②と③とでは、上人の答と著者の感歎語だけを掲げて、
問の言葉を省略して、結構の緊縮を計っている。・・」
「 『 念仏の時、睡におかされ行をおこたり侍る事、
いかがして此のさはりをやめ侍らん 』
問者にとっては、問になっている問のつもりであることが、
調子に出ていて興味が深い。そして、それがまた、だれでも
自分の場合は気づかない、人間通有な弱点であることが注目せられる。
『 目のさめたらんほど念仏し給へ 』
問によって生じた人間共通の弱点を、
簡勁な一語で衝いて餘すところがない。
人間というものは、可能なところを捨てていて、
しかも不可能なところばかりを数えていたがるものだから。
皮肉なようで親切、平凡なようで深遠な答語である。 」(p196~197)
この徒然草第39段は、たとえば、岩波文庫では行をわけて原文が
6行です。短い箇所なのですが、さらにそれを三等分して西尾氏は
説明しており、その最初の①を、ここに引用してみました。
この第39段の法然上人が登場する箇所を、西尾氏は別のページで
吉田兼好が、わずかな行で上人を取り上げたことへと言及されておりました。
「・・およそ、すぐれた人間を、その人間らしい言葉において
生かし得る作者(兼好)は、非凡な作者である。
一人の人物について、その思想を把え、
行動を叙することはさして難事ではない。
けれども、その人の言葉をもってただちに
その人物を描出することは、至難である。
この意味において、法然上人ほどの人物を、
わずかに三つのこの短章によって浮き彫りにし得た著者は、
まさに、作家としての自在境に入ったものであるといわねばならぬ。」(p221)
はじめてひらいた西尾氏のこの本なのですが、
パラパラ読みらくし、ここでは、本文の最後を引用しておくことに。
「・・・そういう仏教的教養や王朝文化主義をかなぐり捨て、
彼自身の本音を吐露しないではおかない人間兼好の真実さを示している。
彼の中世的人間像の創造や中世的様式美の発掘は、
むしろ、彼の教養や尚古主義をかなぐり捨て、
自由人らしい人間兼好の本音を傾けているところにおいて、
形成されているというべきではないだろうか。
武家北條時頼への人間的同感(215)、
新興仏教家としての法然に対する讃仰(39)など、
新しい時代に対する、また、革命的な原理に対する、
衷心からの承認がある。彼の反時代的性格は、
それが頽廃に陥っている古代貴族である公家階級に
向けられたものであっただけに、それの否定的勢力として登場した、
新興貴族である武家の革命的文化は、解放された人間兼好の本音に
つながる可能性をもつものであったにちがいない。
ここに、つれづれ草に示された兼好の
人間像が認められ、作家像が見出されるのではないだろうか。」(p262)
はい。パラパラ読みですが、読めてよかった。
まるで、ジグソーパズルの途方に暮れるような煩雑なピースが、
確実に組み合わさってゆくようで西尾實氏の本読めてよかった。