親鸞の「浄土和讃」の19には、こうありました。( p106 )
左は親鸞の「浄土和讃」で、右が増谷氏の現代語訳です。
親鸞 現代語訳(増谷文雄)
善知識にあふことも よき師にあうはかたきかな
をしふることもまたかたし おしえることもかたきかな
よくきくこともかたければ よく聞くこともかたければ
行(ぎょう)ずることもなほかたし 念仏するはなおかたし
編集増谷文雄の 「日本の思想3 親鸞集」(筑摩書房・1968年)
の最初には、増谷氏による「解説 親鸞の思想」が載っております。
そのp3~p7までを読んでいると、私は、もうこれで満腹の気分になります。
うん。その満腹感の正体を味わいたいと思い、引用してみます。
「この『親鸞集』のなかでその全訳をこころみておいた『三帖和讃』
すなわち、『浄土和讃』『浄土高僧和讃』・・『正像末法和讃』の
三部作に着手したのも、関東での伝道をおえて、京都に帰ってから
十年も経ってからのこと。もっと正確にいえば、
『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』が成立したのは、その76歳の春のこと。
『正像末法和讃』をしたためおわったのは、もう86歳の秋のおわり・・。」
( p3 )
親鸞は「90歳という稀なる長寿を享(う)けた人であった。」(p7)
歎異抄はというと、「その時、その人は、
すでに83歳もしくは4歳の老いたる親鸞であった筈である。」(p6)
「たとえば、わたし(増谷文雄)は『歎異抄』の第二段がすきであって、
親鸞の人となりを思うときには、よくその叙述を思いうかべる。 」(p5)
「『 おのおの方が、はるばる十余ヵ国の境をこえ、
身命をかえりみずして、訪ねてこられた志は、
ただひとつ往生極楽の道を質(ただ)し聞こうがためである。
だが、もし、わたしが、念仏のほかに、
往生の道をも存じていよう、また、
経のことばなども知っていようと、
いかにも奥ゆかしげに思っていられるのなら、
それは大きなあやまりである。』 (現代語訳)
・・・・・ その詰めよる人々をまえにして、親鸞のいったことは・・
『 わたくし親鸞においては、
ただ念仏を申して弥陀にたすけていただくがよいと、
よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
そのほかにはなんのいわれもない 』
・・・もしも、そのほかに、いろいろの理屈や経のことば
などが知りたいというのなら、
『 奈良や比叡にはご立派な学者がたくさんおられるから、
あの人たちに会われて、往生のかなめをよくよく聞かれるがよい 』
ということであった。 」( p5 )
はい。ここまで引用したのですから、これでいいのでしょうが、
ここまで引用したのですから、もうちょっとつづけておきます。
「 そこで、彼らは、たがいに顔を見合わせながら、
『 では、念仏だけできっと浄土に生れることができるのですねえ 』
と念をおしたにちがいない。
その時、親鸞が、いささかキッとした面持ちでいったことばは、
こうであった。
『 念仏は、ほんとうに浄土に生れるたねであろうやら、
それとも、地獄におちる業(ごう)であろうやら、
わたしはまったく知らないのである。
たとい法然聖人にだまされて、念仏を申して
地獄におちたからとて、けっして後悔するところはない。
というのは、ほかの修行にでもはげんで、仏になれるというものが、
念仏を申して地獄におちたのなら、だまされたという後悔もあろうが、
なにひとつ修行もできぬこの身のことだから、
どうせ、地獄ゆきにきまっているではないか 』(現代語訳)
そこに読みとられるものは、
印象の鮮明のかぎりをつくした念仏者、親鸞の人間像である・・・ 」
( p5 ~ p6 )