和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『補記』の方が面白かった。

2015-06-04 | 短文紹介
山本七平著「小林秀雄の流儀」(新潮社)を
出してくる。本の題名にもなった章をひらく。
そこから引用。

「怠惰な書評家は『序文』と『あとがき』を読み、
『目次』を眺めてこの辺が『論点』だろうと
思われるところを二、三ヵ所ひろい読みして
書評をする。もちろん精読する人もあろうが、
ひろい読みか精読かは書評の価値を決定しては
くれない。創作であろうと批評であろうと、
その作品の価値は努力の累積で決定するわけではない。
さらに動機の純粋さなどは、何ら価値決定の尺度には
ならない。ドストエフスキーが『博打の借金』のため
に書きとばそうと、モォツアルトが『演奏に間にあわ
ないから』と練習の必要がない曲を作ろうと、
癇にさわる『あん畜生ぶったたいてやれ』で批評を
しようと、そんなことは出来てしまった作品の価値には
無関係であろう。・・・」(p210)

また、こんな箇所。


「『本居宣長』より『本居宣長補記』の方が後世に
残ることもあり得る。もちろん『本居宣長』がなければ
『補記』は生まれるはずはないし、『宣長』を読んだ
からそう言えるのだと言えば言えようが、
私には『補記』の方が面白かった。・・・」


小林秀雄著「本居宣長」と「本居宣長補記」と
だいぶ前に読んだので内容は忘れましたが、
これ、たしかに私もそう思いました。
その時私が思ったことは覚えております。
若い頃の小林秀雄という人は、
さんざん考えた末に、最後に短く言葉を使って
文章を書いていたような感じでした。
ということは、
若き頃の小林秀雄なら、
さんざん「本居宣長」の本文を考えた末に、
それをぜんぶ切り捨てて、
文章にするのは「本居宣長補記」だけを
書き記しておられたのじゃないか。

ですから、晩年の
「本居宣長」と「本居宣長補記」とは
小林秀雄の思考過程を辿るための
またとないレッスン教本であるのじゃないか。
などと思ったことがありました。
さて、今なら読み返せるかどうか(笑)。

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