和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水は恐ろしいもの。

2011-05-16 | 短文紹介
幸田文の「こんなこと」。
そこに「あとみよそわか」という短文の集まりがあり、
そこに「水」と題された文があるのでした。
たしか、中学生の頃に読んだ覚えがあります。

はじまりは
「水の掃除を稽古する。『水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使へない』としよつぱなからおどされる。私は向嶋育ちで出水を知ってゐる。洪水はこはいと思つてゐる・・・・」

新潮日本文学アルバム「幸田文」(新潮社)には
明治40年、隅田川の洪水で水に浸った露伴邸の写真が載っております。また、明治43年8月の大出水。向島三囲神社附近の写真が載っております。

青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)の最初の対談に、こんな箇所。

「そこに住んだのは関東大震災まで、その翌年に小石川に引越してきました。震災で向島の井戸がみんなダメになっちゃったらしい。あのあたりは町工場がたくさんありましたから、震災で地盤が揺れて、工場排水や汚水が家庭の井戸に流れこんじゃったんです。母は一生懸命、あっちこっち貰い水をしたそうですけど、どこへ行っても汲んだときはきれいだけど、持って帰ってカメにあけてしばらくすると、ギラギラ石油が浮いちゃう。どこの井戸もダメ。」

ちなみに、このあとに「あとみよそわか」の意味も語られております。

「『・・・・もういいと思ってからももう一度よく、呪文をとなえて見るんだ』と云った。ソワカというのはお経のそわかです。自分のやったことのあとをよく見て、お経をとなえておく。あとみよそわか。これ、露伴経です(笑)。あたしなんか、あとみ、よそわか、と言ったりで、べんけいがな、ぎなた、の口でしたけど(笑)。」

うん。「水」へともどります。

「父は水にはいろいろと関心を寄せてゐた。好きなのである。私は父の好きだつたものと問はれれば、躊躇なくその一ツを水と答へるつもりだ。大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水、の計数的な話などは凡そ理解から遠いものであつたから、ただ妙な勉強をしてゐるなと思ふに過ぎなかった。が、時あつて感情的な、詩的な水に寄せることばの奔出に会ふならば、いかな鈍根も揺り動かされ押し流される。水にからむ小さな話のいくつかは実によかつた。これらには、どこか生母の匂ひがただよつてゐた。生母在世当時の大川端の話だつたからである。・・・・・これらの話は一ツだけしか残つてゐない。残つたのは『幻談』と私のあきらめばかりである。」


ちなみに、幸田露伴のその『幻談』というのは、
昭和13年(1938)の9月に「日本評論」に発表されておりまして、
その年の5月には、幸田文は離別して、玉を連れて実家にもどっておりました。


さてっと、このあとには、ポオの『渦巻』から、渦から逃れ方を聞くこととなり、不思議は「その翌日、私はずぼんと隅田川へおつこつたのである」という話になるのでした。

面白いのは、「幸田文対話」(岩波書店)に、「おさななじみ」と題して関口隆克氏との対談が載っているのでした。そこで会話。

関口】 だけどね、これ、あなただと思うけど、ほんとだったかどうか、言ってよ。・・・雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸汽に乗ろうとしたら、あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、落ちた、落ちたって・・・。
幸田】 あれ、あたくしよ。
関口】 あなたでしたか、やっぱり。落ちたっていうから、面白いやね。面白いって言っちゃ悪いけど。・・・・その間へ落ちたっていうんで、ぼくが見てたら、ポカッと頭が出てきたんだな。女の人だ、と思っていると、左手にご本なんかの風呂敷包みをもって、右手に、あれは傘だと思った・・・・。
幸田】 傘よ、傘。コウモリ傘よ。
関口】 それでスーッと出てきて、だれかが手を貸したら、そのままフッとあがったんだ。それでぼくはね、ハッと思いましたよ。たしかに文子さんだと思ったけどね、みんなに取巻かれてたから。すこし青ざめていたかと思うけども、リン然としておられるのでね、近寄りがたくて、その日はとうとう、あなたに口をきけなかった。すこし離れたところで見ていて、あなただろうと思ったんですけれども。
幸田】 そうです。あたしですよ。
  ・・・・・・
関口】 ・・・そうしてもう一つ、あなたが立ったとき、ゲタをはいていたんです。
幸田】 そうですよ、片っぽだけ。
関口】 あれは驚いたねえ。川へ落っこって、もぐって出てきた人が、ちゃんとゲタをはいているなんて、気丈な方だと思ってね、こわかったなァ。近寄れなかった。
幸田】 こわかったのは、わたしのほうよ。家へ帰るのにオドオドしちゃった。・・(p247~249)


う~ん。このエピソードを聞いてから、『水』の後半を読むと、また別の味わいがあります。
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幸田文「崩れ」。

2011-05-15 | 幸田文
この前、東京新聞の歌壇をひらいたら、隣のページのコラム「大波小波」に「婦人之友」五月号に青木玉と青木奈緒の対談が掲載されているという情報あり。さっそく雑誌注文。発売からだいぶたち、近くの本屋さんになく、取り寄せなので日数がかかりました。その母娘対談の最初には、
「震災から1週間。まだ余震の続く中、東京小石川の青木奈緒さんのお宅を訪ね、幸田文さんから三代にわたり日本の『崩れ』の場を見つめてきたお二人にお話しいただきました。」

そうだ。幸田文の「崩れ」のことをすっかり忘れておりました。

対談には「祖母(幸田文)の『崩れ』の後をたどって綴ったのが、『動くとき、動くもの』 でした。」と青木奈緒さんが語っております。それじゃ、というので、さっそくネット古本屋の検索をしてみると、ありました。

   青木奈緒著「動くとき、動くもの」(講談社・2002年)

注文。本代300円送料300円で600円なり。
その本が届き。昨日パラパラと最初の方をひろげておりました。
今日になったら、そうだ幸田文著「崩れ」と比べながら、たどれば、ただ読み流していた『崩れ』の文の重さが味わえるのじゃないかと思ったしだいです。
ということで、幸田文の『崩れ』を読み直したいと思うのでした。
もちろん(笑)。まだ読み直してません。

ここでは、そのまえに、本並べ。

  「婦人之友」2011年五月号
  青木奈緒著「動くとき、動くもの」(講談社)
  幸田文著「崩れ」(講談社文庫)
    この「あとがき」は青木玉(平成6年9月)
    文庫解説は、川本三郎。
  長谷川三千子「幸田文の彷徨」
    2004年「正論」12月号・2005年「正論」1月号・2月号連載
  新潮日本文学アルバム「幸田文」
  「幸田文の世界」(翰林書房)
  文芸別冊「総特集幸田文没後10年」(河出書房新社)

 こうして、幸田文著「崩れ」再読。
普通に読んでいた「崩れ」と、大災害がおきてから読む「崩れ」とは、同じ本なのに、読む方の姿勢が違ってきます。はたして、どう読めるのだろう。

コメント (4)
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台風と第九条。

2011-05-14 | 短文紹介
堤堯氏に「日本を脅かすものは戦争と天災だ。今回、天災が起きて、一つの神話が崩れた」(p96・WILL6月号)という言葉がありました。
天災といえば、寺田寅彦の名言を思い浮かべます。
それについては、出久根達郎がこう注釈しておりました。
「『天災は忘れたころにやって来る』は寺田寅彦の名言、と著名だが、寺田の著作にこの言葉はない。似たような言い回しがあり、弟子の中谷宇吉郎が要訳して広めたのである。」(「百貌百言」文春新書p26)
それじゃ、どこで中谷宇吉郎が要訳していたのかと、ちらりと思うのですが、探せるはずもなく。すぐに探すのは、あきらめます。あきらめるのはよいのですが、しゃくだから、他のことを考えます。ということで、そういえば、憲法第九条と台風という結びあわせをしたのが田中美知太郎氏でした。
そちらなら、何となく見当がつきそうでした。
と思って、雑誌文藝春秋の随筆をあつめた。田中美知太郎著「巻頭随筆」(文藝春秋)をひらいてさがしてみました。ありました。こちらはすぐに見つかりました(まあ、ほかでも書いておられたのかもしれませんが)。
ということで、それを丁寧に引用していきましょう。

題は「でも地球は動く」とあります。震災のあとでは、地球が動くといえば、ついつい地震を連想してしまいます(笑)。その途中から

「・・昭和のはじめ(1928年)いわゆる『不戦条約』くわしくは『戦争放棄ニ関スル条約』というものが、英米仏伊その他の国々とわが国などの間で締結されたことがあった。『締約国ハ、国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス』というのがその骨子であった。・・・・・わたしたちは関係者の努力に対して敬意を表さなければならないだろう。同時にまた法律というようなものがどれだけの力をもつかについて、われわれにいろいろ考えさせるものをもつと言わなければならない。
いまこの条約の前文とでも呼ぶべきところを読んでみると、『戦争ヲ率直ニ放棄スベキ時機ノ到来セルコトヲ確信シ』とか、『戦争ノ共同放棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ』とかいう、『確信』や『希望』を表明した文句が基調をなしている。だから、いわゆる戦争放棄の条約なるものは、これらの確信や希望がみたされることを前提とした一種の条件文と見なければならないことになる。つまり『もし・・・ならば』戦争を放棄してもいいという意味が実質だとも考えられる。」

さてっと、ながなが引用してきましたが、ここから台風が登場してきますので、もうすこしお付合いください。

「ところが、この条件はなかなか充足されないのが事実であって、この条約締結後の世界の歴史は、むしろ正反対の途を歩んだことになる。このような場合、この条件文のなかに言われているようなことが、事実となることを条約文は命令することができるだろうか。どうも出来そうもないようである。法律をつくることによって事実をも創作するわけにはいかないのである。『台風ノ襲来ハコレヲ禁止スル』という憲法をつくったり、法廷において『地動説はあやまりであるから、これを説いてはならない』というような判決を下すとしたら、ずいぶん滑稽なことになるだろう。それでもやっぱり台風はやって来るし、地球は動くからだ。
日本国憲法第九条というものがある。何だか不戦条約の条文をやき直したような感じである。『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』という希望文があって、それから『戦争の放棄』とか、『戦力の保持』あるいは『交戦権』の否定がうたわれている。条件文構造は同じと言えるかもしれない。不戦条約の条件文にうたわれた希望というものは、たいへんりっぱなもので、わたしたちの念願とも一致するところが多いと言わなければならない。しかし希望はあくまでも希望たるにとどまるのであって、これを条約文に書きあらわして、厳粛に宣言してみても、それだけでは事実をつくり出すことはできない。・・・・」


さて、ここまで引用してきたのですから、最後の箇所までも引用しましょう。


「国際関係というものは、無法の要素を多分に含んでいる。国際条約はこれに正義と秩序を少しでも入れるための努力として意味をもつ。しかし実効はなかなかないのが現状である。その国際条約で出来ないことを一国だけの法律で実現できるのかどうか。一国の憲法が国際関係を事実的客観的につくり出し、法廷が世界平和を命令することができるのかどうか。一億の人間がいっしょに生活を保ち、これを少しでもよくして行くための条件はいろいろある。憲法も法律もそのためのものにすぎない。そしてその複雑な条件のなかで、どうしたらいいかをきめて行くのが政治の仕事である。それはむつかしい仕事だから、裁判官にこれを一任するというようなわけにはいかないだろう。古人曰(いわ)く『国の安全こそ最高の法たるべきものである』と。」(p92~95)

うん。「国の安全こそ」といえば、佐藤優著「3.11クライシス!」(マガジンハウス)のまえがき(2011年4月12日記)に

「菅首相をはじめ、日本の政治エリートは実にひよわで情けない。危機に対応できる基礎体力がない。しかし、このひよわさ、情けなさは、私を含む、現下のすべての日本人の欠陥である。政治家や官僚、あるいは東電幹部を批判するだけでは何も変わらない。われわれ自身が、国民同胞と日本国家のことを真剣に考え、行動するように変わっていかなくてはならない。」(p7)

そのすこし前にはこうもありました。

「鳩山氏の後を襲った菅直人首相は、ポピュリストである。常に仮想敵をつくり、それに対抗する『負のエネルギー』を結集することで、自己の権力基盤を強化しようとする。・・・国際的には、米国を除くすべての外国が仮想敵になり得る。特に菅政権になってからロシアとの関係が、かつてなく悪化した。・・・・・菅政権が続くと・・・中国、ロシアとの関係が過度に緊張し、無為無策のために中東のエネルギー資源を失い、沖縄は日本からの分離傾向を強め、日本国家は奈落の底に落ちるという危惧を私は2月中旬以降強めた。当然、菅政権に対する批判を強めた。そのときに起きたのが3・11クライシスなのである。」
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石巻日日新聞。

2011-05-13 | 地域
そういえば、テレビで見た石巻日日新聞のことが気になり、新聞を探す。たまたまあった日経新聞4月16日にありました。そのはじまりは

「東日本大震災で被災した『石巻日日(ひび)新聞』(宮城県石巻市)が震災直後、フェルトペンの手書きで発行を続け避難所などに張り出した壁新聞を、米ワシントンの報道博物館『ニュージアム』が譲り受け、展示に加えることになった。同博物館が14日までに明らかにした。」

 日日新聞の壁新聞が写真入で掲載されておりました。

そういえば、と「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)をひらく。
そこに、こうありました。

小山】 この梅棹資料室にある資料は、知的生産の技術のひとつの結晶として、アーカイブズとなって残されています。日本人はアーカイブズの処理が下手ですよね。
梅棹】 だいたいがあまり上手ではないな。
小山】 梅棹さんは以前、なかなかいいなと思ったものに大宅文庫があるとおっしゃってましたね。あれはどういうところですぐれてたんですか。たとえば週刊誌とか雑誌とか、そういう雑雑としたものが集められている。
梅棹】 そういうものを探そうと思ったときは、大宅文庫に行ったら出てくる。大宅壮一と奥さんの大宅昌さんがずっとやってきたことで、当時は週刊雑誌みたいなもの、みんなバカにして読み捨てやった。それを全部きちっと整理して残してたんです。
小山】 週刊誌は、図書館はもともと買わなかったですね。
梅棹】 買わない。つまり、大宅文庫は図書館とは正反対の思想やな。 (p76~77)

  さて、このあとでした。こんな箇所があるのです。

小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものもきちっと集めていくんですよね。
梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。
小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう重要な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。 (p80)



では、先ほどの日経新聞の記事のつづきを引用していきます。


「同紙は1912年創刊で、夕刊1万4千部を発行。武内宏之常務・報道部長(53)によると、停電と浸水で編集、印刷設備が使えなくなったが、無事だったロール紙を切り取り、社員が『日本最大級の地震・大津波』などの見出しで記事を書いた。被災した夜にろうそくの明かりの下で『ペンと紙があれば伝えられる。壁新聞で行こう』と話し合った。壁新聞は電気の復旧まで6日間、6カ所に張り出された。これを米紙が報道し、博物館が寄贈を要請。武内部長は『地域のためできることをした。光栄との感慨はない』と戸惑いながら『私たちは地元密着の新聞。復興は長丁場になる。地域の人々と一緒に苦しみ、悩み、希望を見出したい』と話した。
ニュージアムのクリストファーセン学芸員は『ジャーナリストたちは地域に欠かせない情報の提供に貢献した』と展示の意義を語った。」
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校長先生たちから。

2011-05-12 | 短文紹介
昨日本屋で興味深い本を見つけました。
ふだん本屋へと近づかないようにしております(笑)。
ですが、東日本大震災のあとは、週刊誌や月刊誌を買いにいったりで、町の本屋へと足が向きます。その本屋で見つけたのが新潮ムック「これからを生きる君たちへ」(平成23年4月26日発行)。脇には「校長先生たちからの心揺さぶるメッセージ」。卒業生への校長先生の言葉が選ばれて並んでおります。そう、今年の卒業式は、いつもの卒業式とは違っていたのでした。

え~と。どなたにも、おすすめです。
簡単に読めます。岩手県の小学校・中学校が5校。
それに関東の学校や、東京・一橋・大阪・長崎大学の式辞告辞が並びます。
どれかを選んでよんでもよいわけです。
それを読みながら、私に思い浮かんできた数行がありました。
それは阪神・淡路大震災の際に書かれた、中井久夫の「災害がほんとうに襲った時」にある文でした。以下思い浮かんだ箇所。

「・・突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちはある意味ではもっとも孤立無援である。避難民には突き上げられ、市にはいっさいの人員援助を断られ、そして授業再開への圧力がある。災害精神医学というものを曲りなりにも知っていた精神科医とちがって、校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである。そして、精神科医に対して偏見がある方も少なくなかった。精神科医にも校長先生や学校に対して偏見があるであろう。精神科医たちが一堂に会した時、いかにいじめられっ子出身者が多かったかに驚いたことがある。いじめられっ子は先生に絶望した体験を持っているものだ。・・・」


さあ新潮ムック「これからを生きる君たちへ」(定価500円)は
読まれることをおすすめして、ここでは一箇所だけ引用。

それは、この本のなかに「被災地の卒業式」と題して黒井克行氏が書いておりました。
はじまりから引用。

「今回の被災地の常として、津波の被害がなかった建物はみな、避難所となる。釜石小学校の体育館も、避難した住民で溢れかえり、窮屈な生活を強いられていた。寒い。でも、毛布しかない。・・・・
式が終わりにさしかかり、校歌が合唱された。作詞は、仙台出身の作家・井上ひさし氏による。この歌声を聞いた時、私も涙を止めることができなかった。

    いきいき生きる いきいき生きる
    ひとりで立って まっすぐ生きる
    困ったときは 目をあげて
    星を目あてに まっすぐ生きる
    息あるうちは いきいき生きる

    はっきり話す はっきり話す
    びくびくせずに はっきり話す
    困ったときは あわてずに
    人間について よく考える
    考えたら はっきり話す

    しっかりつかむ しっかりつかむ
    まことの知恵を しっかりつかむ
    困ったときは 手を出して
    ともだちの手を しっかりつかむ
    手と手をつないで しっかり生きる


毎朝、ラジオ体操の後、被災者全員で歌うという。
信じられないような大災厄に襲われても、
ただ悲しみに打ちひしがれているだけではない。
復興への力強い希望の第一歩を感じ取ることができた。  」(p16~17)
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東電社長の3月11日。

2011-05-11 | 短文紹介
正論5月号の金美齢・曽野綾子対談に、こんな箇所。


金】 東京電力の清水正孝社長は、地震のあった当日に関西に出張していて、名古屋空港から東電のヘリコプターで帰京しようとしたけれども深夜だったため拒否され、防衛省に頼み込んでようやく帰京したと週刊誌が報じていました。福島第一原発が冷却不能に陥って、『原子力緊急事態宣言』が出されていたにもかかわらずですよ。


WILL5月号の曽野綾子連載「小説家の身勝手」(p124)には


「・・そんな時に、まず資格のあるなしを問題にする日本の若い世代の頭の固さに、正直私はうんざりした。臨機応変ということがこの人たちにはないのだ、と思い知った。今回もまたその手の『野戦知らず』、臨機応変の力を欠いた才能に仕事は邪魔されたようだ。地震後、緊急に帰京しなければならなかった東電の清水社長は、名古屋空港にある自社ヘリで戻ろうとしたが、離発着の制限時間を過ぎていることを口実に、はじめ飛行許可をもらえなかった。それで何時間か指揮を執るのが遅れたのであろう。証明書、許可証、通行証などがないと、彼らはもう恐ろしくて何もできなくなるのである。・・・・許可も書類もそんなものは後でいい、と腹をくくることのできない世代が多いのである。
災害というものには予測がない。刻一刻と状況は変わる。当事者はルールもない推移のなかで、この一瞬一瞬に、どれが比較的ましかを考えて決めていかねばならない。計画を立て、討議し、申告し、評定し、裁定を仰ぎ、執行する、という全ての手順が無視されるか、省かれざるを得ないのが自然災害なのである。・・・」


この清水正孝東電社長の3月11日が、気になっておりました。
それが4月26日の産経新聞一面に、その詳細を読むことができた。
これは、きちんと引用しておきましょう。
まず、見出しを詳しく引用します。
「震災当日 東電社長が乗った輸送機、離陸後 防衛省支持でUターン」
見出しのすぐ脇には、こうあります。

「東京電力の清水正孝社長が、福島第一原子力発電所が深刻な事故に見舞われた3月11日の東日本大震災当日、出張先から東京に戻るため航空自衛隊の輸送機で離陸後、防衛官僚の判断でUターンさせられていたことが25日、分かった。事故の初動対応を指揮すべき清水社長が都内の本店に戻るのは、翌12日午前までずれ込んだ。北沢俊美防衛相には輸送機が離陸していたことは報告されておらず、政治主導を掲げる民主党政権の閣僚と官僚の意思疎通の欠如が、危機管理の重要局面であらわになった形だ。」

これは、金美齢氏や曽野綾子氏の言葉とズレております。
詳細は、ぜひとも知りたいわけですから、
以下、産経新聞一面の詳細を引用させていただきます。


「清水社長は震災当日、関西の財界人との会談に出席するため主張中で、奈良市の平城宮跡も視察。勝俣恒久会長も北京に出張しており、両トップが『非常災害対策本部』を設けた本店に戻れなかった。東電によると、清水社長は11日午後3時ごろ本店と連絡をとり、ただちに帰京すると伝えた。東京に向かう高速道路が通行止めとなったため、奈良から名古屋まで電車で移動。名古屋空港から東電グループの民間ヘリで帰京しようとしたところ、同社のヘリは航空法の規定で午後7時以降は飛行できなかった。」

 以上までが、金氏と曽野氏の言葉と符合しております。
そのあとに、まだゴタゴタが続いておりました。

「防衛省によると、午後9時半ごろ、首相官邸にいた運用企画局長を通じ、経済産業省からの官庁間協力の依頼として、清水社長を空自輸送機に搭乗させるよう要請があった。清水社長は名古屋空港から空自小牧基地(愛知県)に移動しC130輸送機に搭乗。11日午後11時半ごろ入間基地(埼玉県)に向けて離陸した。防衛省によると、これと前後して、清水社長の搭乗を調整していた運用企画局事態対処課長は、北沢氏に『東電の社長を輸送機に乗せたいとの要請がある』と報告。北沢氏は『輸送機の使用は(東日本大震災の)被災者救援を最優先すべきだ』と指示した。これを受け、事態対処課長は空自部隊に清水社長を搭乗させないよう指示しようとしたが、すでにC130は離陸していた。このため課長はUターンさせるよう指示した。同機は離陸してから約20分後にUターンし、12日午前0時10分ごろ小牧基地に着陸した。・・・・清水社長は翌12日早朝、チャーターした民間ヘリで名古屋空港を離陸し、本店に到着したのは午前10時ごろだった。清水社長が不在の間、第一原発では原子炉内の水が失われ炉心溶解が進む一方、原子炉内部の放射性物質を含む蒸気を外部に逃す『ベント(排気)』と呼ばれる措置も遅れた。・・・」

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塞がれたポスト。

2011-05-10 | 手紙
毎日歌壇5月8日の伊藤一彦選の3首目でした。

 投函にくればポストに紙貼られ塞がれてをり
地震(なゐ)のためにと
         横手市 浦部昭人

思い浮かんだのは、「1995年1月・神戸」(みすず書房)。
その中井久夫氏の「災害がほんとうに襲った時」のこの箇所でした。

「・・・・郵政の末端は非常な努力で震災の翌々日には私の家にも配達を実施してくれた。特定郵便局の老局長さんみずからのバイク姿の御出馬であった。普通ハガキで四日から七日、速達はずっと早かった。郵便小包も次々に配達された。私も20年前に診てなお入院中の方から一万円、10年前に一度相談に乗った方から多量の鉱泉水などを頂いて驚いた。他にもかつての患者さんからの物資、見舞い、手紙がもっとも多かった。しかも年賀状を欠礼してしまった前任地、前々任地からの御贈り物もあった。これらの意義をさとって配達された郵政省の職員に敬意を表したい。
地震当日が私どもの地区の荒ごみ収集日であった。さすがに当日は清掃局の収集車が来なかったが二日遅れできちんと収集され、次回からは定時に収集が行われた。驚くべきことである。・・・それほど、私のあたりは被害が少なかった。不条理な話であるが、ふだんは意識しない地盤と家屋構造と破断の走り方とによって明暗は大きく分かれたのである。」

明暗がわかれるといえば、
3月23日読売新聞に山崎正和氏が「震災克服への展望」という談話をのせておりました。
その最後に、こんな箇所があります。

「阪神大震災で被災した16年前、私は『おにぎりも、文化も』を合言葉に文化復興に奔走した。発生からほどなくして、荷物をまとめ兵庫県西宮市の自宅から京都方面に避難したのだが、(西宮・尼崎市境の)武庫川を渡った途端、被災地とは別世界が広がっていた。それを思い起こすと、今回の大震災は被害がけた違いだ。文化を含めて人々が心理的安定を取り戻し、できるところから平常心をよみがえらせていくことは大切ではあるが、その事を口にするにはもう少し時間がかかるかもしれない。」

ちなみに、山崎氏の談話のはじめのほうには、こうありました。

「戦後最大の国難というほかない。・・・・再び戦後復興に取り組むくらいの覚悟が必要だ。救いは全土が焼け野原だった戦後に比べて、今回は東京以西のインフラ(社会基盤)がほぼ無事なことだ。日本人は『災害復興型』の国民だと思う。太平の時代、文化は爛熟するが、元気に乏しい。だが、いざ国難に直面すると、奮起する国民性なのだ。今回も、日頃はとかく『内向き』と評される若い世代が頑張ってくれるのではないか。そう考えるのは、私もまた、災害復興型の心理状態にあるのかもしれない。」


さて、もう五月になっておりました。
今日「文藝春秋」6月号が発売。
巻頭随筆は立花隆氏。そこに

「・・大震災以後しばらく、TVから商業コマーシャルがいっせいに消え、その代りうるさいほどに『日本は強い国』『みんな一緒』『絶対乗りこえられる』を強調するACジャパンの公共コマーシャルが流された。あの連呼を聞いていると、私のような世代は、戦争時代の『国民精神総動員運動』を思い出してしまう。何か危ない時代に突入しつつあるような気がして、逆にこの道を行くと国家的苦難を絶対乗りこえられないのではないかという気がしてきてしまう。」


かたや、戦後復興型。
こなた、戦争時代の思い出。

ところで、「塞がれたポスト」
あれから、投函できたのでしょうか。
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それだけですごい。

2011-05-09 | 短文紹介
大前研一著「JAPAN;The Road to Recovery  日本復興計画」(文藝春秋)を読みました。まえに週刊ポストの連載とかユーチューブでの録画を見ていたので、それなりにわかっているつもりでしたが、あらためて文字をたどることが出来て幸い。

原発に対する週刊ポストの冷静な対応は、おそらく大前研一氏の見識が反映されているということは、すこし読み込めばどなたにも納得できるところです。他の週刊誌の追随を許さぬものがありました。

その大前研一氏の文を読みながら、私に思い浮かんだのは、鼎談での言葉でした。
丸谷才一・谷沢永一・渡部昇一の3人(「丸谷才一と17人の90年代ジャーナリズム大批判」青土社)。そこで「優秀な人に相談するというのは、それだけですごい才能なんですね。」と語り合っている箇所があるのでした。ちょいとその前後を引用してみます。
それは「日本の『万葉集』研究の歴史を変えたのは、昭和六年の『万葉集総索引』」と谷沢氏が語る箇所でした。

丸谷】 あれはすばらしい。
谷沢】 これは正宗敦夫。白鳥の弟ですね、この人は、兄貴と違って地道な人で、何か文化的な事業をやりたいと、東京大学の橋本進吉のところに相談に行ったんです。そうしたら進吉さんが、「絶対に『万葉集』の総索引をやれ」といって、だいたいの基本方針を授けたらしい。だから橋本進吉指揮、正宗敦夫独奏というやつですね。
丸谷】 ・・・・優秀な人に相談するというのは、それだけですごい才能なんですね。
谷沢】 近代アカデミズム国文学の最高峰の橋本進吉に相談したということがあの事業を有効ならしめたんですね。あれで万葉はいっぺんに甦った。・・・・生涯もっともよく使ったのが、澤瀉久孝さんでした。『万葉集』のことは『万葉集』に語らしめるという内部証徴で全部やった。外から概念を持ってきたりしない。この澤瀉方式というのは、『万葉集総索引』があったからこそできたわけです。 (p89)


ところで、
菅首相は5月8日に
中部電力に浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の全面的な運転停止を要請した。ということですが、これについて、さっそく大前研一氏の本で、確認してみます。

たとえば、
「民主党政権は、日本国内では2030年までに少なくとも14基以上の原子炉の新増設を行うことと、新興国を始めとする電力需要の多い国へ原子炉を輸出していくことを宣言していた・・・」(p29)

それでは、浜岡原子力発電所の問題はなにか?
たとえば、大前研一氏のいう「中間貯蔵施設の問題」が気になります。


「住民対策といえば、中間貯蔵施設の問題もある。建屋の中に使用済み核燃料のための巨大な冷却プールがあるのは日本独特の光景である。このことを初めて知って、驚いた方も多いのではないだろうか。停止中の4号炉で水素爆発が起こったのは、この使用済み燃料から発生した水素によるものだった。なぜ停止中なのに? と思われるかもしれないが、じつはほかに使用済み燃料の置き場がないからである。
中間貯蔵施設とは、使用済み燃料を一定期間過ぎたときに搬出して、再処理するまでの間(10年から15年)置いておくための施設。むつ小川原(青森県)の施設が去年の12月に完成する予定だったのだが、まだ着工したばかりで大幅に遅れている。だから、これができるまでは発電所施設の中に仮置きするしかない。これは全国どこの原発でも見られる状況だ。福島第一でいえば、燃料棒三千本ぐらいの集合体になるが、それだけの使用済み燃料が原子炉建屋内のプールに仮置きされているのだ。その他に共用プールがあって、そこにも五千本近い燃料集合体があると思われる。全部で福島第一だけでも一万本以上が貯まっている。それらのプールは、冷却水喪失事故などは前提としていない仮設のものだから、ほんの簡単な作りで、底のステンレスの厚さは五ミリ程度。ホテルのプールと変わらないぐらいのものだ。それが冷却水の循環が止まってしまったために水が蒸発し、ジルコニウムと接触した水蒸気から水素が出てきてしまった。4号機で水素爆発が起きたのも、その燃料貯蔵プールが非常に簡易な造りになっているせいかも知れない。水素が蒸発したというより、地震による損傷でどこかから水漏れがあり、干上がって燃料棒が露出した可能性もある。・・・」(p48~49)

大前氏の説明を踏まえるならば、停止だけでは、すまないのだけれど。
それにたいする菅首相の説明は、むろんないわけです。
現在の段階で、中部電力は停止要請を受諾するかどうかの判断を迫られており、ここでも悪者になるのは、中部電力ということになりそう。

うん。もうすこし引用。東電の体質を批判しながらも大前氏はこう語っておりました。


「国が推進すると決めたわけだ。だからこの間、原子力を電力会社が推進しようとしたことは一度もない。」(p104)
「心から原発をやりたいと思っている電力会社はない。過去もなかったし将来もない。なのに、行政や住民への接待漬けを伴う説得の仕事はすべて押し付けられてきた。対して原子力安全委員会や保安院は、そんな汚れ役をやるわけでもないのに、原子炉の設置許可権を盾にあれこれと電力会社をいじめてきた。中間貯蔵施設がないと燃料は燃やせませんよと泣きついても、そのうちに作ってやると言われ続けて数十年。最終的には拒否された高知県との交渉も、国がやってくれないから東電が行ったのだ。」(p105)

この推移からすると、浜岡原発は運転停止となるようなのですが、
施設内の使用済み燃料のための巨大プールの問題があることを、大前さんの本は示しております。


大前研一氏は、どういう方なのか。

「私は、ちょうど福島第一原発の炉が設計・建設・稼動を始める1960年代の後半に、マサチューセッツ工科大学で原子力工学を学び、博士号を取得後、1970年に日立製作所に入社、原子炉の設計に携わった。そうした背景があったために、地震直後から、福島原発が、今日判明するような事態にまでいきつくことがすぐにわかった。」と「はじめに」で書いております。

「私は、福島第一の原子炉は完全に冷やし、核廃棄物をきれいに除去したうえで、コンクリートによって永久封印をすべきで、それには三年から五年はかかると述べた。しかし政府幹部は、3月25日の段階でもまだ福島は石棺で覆うと言っていた。・・・・私は、今の状態のままコンクリートを打っては絶対にいけないと言ってきたのに、どういう学者がアドバイスしているのか、あまりにも知識がなさすぎる。」

この本は2011年3月13日・3月19日・3月27日・4月3日収録されたもので
YouTubuでご覧になれます。

もう一箇所。

「地震の翌日、1号機の建屋内の使用済み燃料プールのあたりで爆発が起きた。・・つづいて四日目から五日目にかけて、3号機、4号機でも水素爆発が起きた。後者の建屋は天井がすべてなくなった。
1号機について、原子力安全・保安院は格納容器内の圧力が8気圧になったと発表した。私は即座に、これは嘘だと思った。制御室のメーターは読めない・・私が『8気圧』という数値が嘘だと思ったのは、次の理由による。格納容器の耐圧性能は4気圧に設計されていて、1号機の場合は3.75気圧。実際に行われた破壊テストではその1.5倍で容器が破裂し、破片が150メートルほど先まで吹き飛んだとされている。つまり、6気圧くらいで破裂するはずなのに、8気圧だったと平気で言うのだ。・・この調子では、保安院や東電が発表する、温度など他の数値もまったくあてにならない。」(p81)
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五臓六腑に。

2011-05-08 | 地域
東日本大震災のあとに、
司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」を読み直すと、
あらためて目をひく箇所に出くわします。


「20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。・・おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。」


「・・自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。」


ちなみに、この文は1988年に書かれておりました。
わたしは、1995年の阪神・淡路大震災のあとには、この文面をすっかり忘れておりました。今回、東日本大震災のあとに読み返して、はじめてこの箇所にであった感触で読みました。つまりわたしも「自然に対していばりかえっていた時代」の申し子だったわけです。なにか、変なことを司馬さんは言っているなあ、というぐらいにしか思っておりませんでした。



以下は、話題をかえて、寺田寅彦の「日本人の自然観」について
そこに「日本人の精神生活」という箇所があります。

「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のように多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。
日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べてきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。・・・全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。・・・・
ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。」


さてっと、
私は、東日本大震災がおこって新聞をめくっていたのですが、
新聞の歌壇俳壇を読んで、たとえていえば腰が定まったような気がしておりました。それが何であったのか、寺田寅彦の文を読んでいると氷解されるような気がしてくるのでした。
では、その箇所。


「こういう点で何よりも最も代表的なものは短歌と俳句であろう。この二つの短詩形の中に盛られたものは、多くの場合において、日本の自然と日本人との包含によって生じた全機的有機体日本が最も雄弁にそれ自身を物語る声のレコードとして見ることのできるものである。これらの詩の中に現われた自然は科学者の取り扱うような、人間から切り離した自然とは全く趣を異にしたものである。また単に、普通にいわゆる背景として他所から借りて来て添加したものでもない。人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として行き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。
西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈(フィロソフィー)が生まれたり教訓(モラール)が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門の俳句におけるがごとく人と自然との渾然として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。」


どうでしょう。寺田寅彦の「日本人の自然観」は読む価値があります。
それを読み終わってから、司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」にある
「人間は、自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。・・・」を読み直すと、より分かりやすくなるのでした。

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見あげてごらん。

2011-05-07 | 詩歌
新聞の歌壇・俳壇から。
読売歌壇5月2日の岡野弘彦選の最初の歌は、

 九日ぶり救出されし少年は夜空の星の美しさ言う
            国分寺市 森田進
選評】 祖母と共に九日目に発見され、救出された少年のなにげない一語が鮮烈だった。この天災によって、力ある言葉と、磨滅した型通りの言葉との差を切実に知らされた。


同じ日の読売俳壇。正木ゆう子選の三句目

 ひざまづき瓦礫の若布拾ひけり  仙台市 松岡三男

選評】 こういうとき、寡黙な俳句の前に、読者も寡黙になる。何も説明がなくてもいい。ただ作者の近くで、読者もひざまづく。


ところで、今回私に気になったのは、空に関する歌と句でした。
以下それをランダムに列挙。

 燕来ぬ地震に傾きたる家に  香取市 関沼男

これは、小澤實選の最初の句(5月2日読売俳壇)

選評】 地震によって傾いてしまった家にも、あやまたず燕が来てくれた。これから巣作りをするのだろうが、小さな身の燕に励まされる思いである。変わらないことは強い。

 ラジオより買い出し情報鳥帰る  仙台市 斉藤栄子

これは、宇多喜代子選の最初の句(5月2日読売俳壇)

選評】 非常時の唯一の情報源はラジオ。そのラジオからもっとも身近な買い出し情報が聞こえてくる。忌まわしい現実とはかかわりなく季節は移ってゆく。

地震などなかったような青い空給水受けに自転車をこぐ
        角田市 伊藤久美子

これは、俵万智選の6首目(5月2日読売歌壇)

 父祖の地も学舎も北や鳥雲に  野田市 塩野谷慎吾

これは、西村和子選の一句目(4月24日毎日俳壇)

選評】 前書を要する句かもしれない。北へ帰る鳥に地震の被災地への思いを託した句。


 何もかも失ってさえも顔あげて耐えて被災者生きぬかんとす
      松江市 三好里美

これは、伊藤一彦選の第一首目(4月27日産経歌壇)

選評】 被災地以外の国民はテレビや新聞を通じて被災者の苦難の姿を知る。その姿に精いっぱいの応援を送りつつ、こちら側も励まされている。「顔あげて」が印象的。


詩もありました。産経新聞一面の「朝の詩(うた)」5月2日。

    平成23年3月11日午後2時46分

 この日まで一滴の水が
 体の奥までしみわたる
 喜びを知らなかった。

 この時まで一個の
 あめ玉を分けてなめる
 幸せを知らなかった。

 つぶれたわが家
 地割れした道路から
 真っ青な空を見上げる
 北帰行の白鳥たちが
 はげましの鳴き声
 あげて飛んで行く。

    福島県矢吹町 阿部正栄 (62)
       (選者 新川和江)


司馬遼太郎が小学校の教科書のために書いた
「21世紀に生きる君たちへ」という文がありました。
朝日出版社からは「対訳」も出ております。
その対訳は、ドナルド・キーン監訳/ロバート・ミンツァー訳。
その司馬遼太郎ご自身による編集趣意書という短い文があります。
その後半に

「・・・・ひとりずつへの手紙として。こればかりは時世時節を超越した不変のものだということを書きました。日本だけでなく、アフリカのムラや、ニューヨークの街にいるこどもにも通じるか、おそらく通じる、と何度も自分に念を押しつつ書きました。」

その「21世紀に生きる君たちへ」の文章の最後の方には、
こんな箇所があったのでした。

「君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。」
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祈りを届ける。

2011-05-06 | 朝日新聞
雑誌の文は、その時感銘していても、
いざ、読み直したくなっても、時間が経過するほどに、
どこにあったのか、忘れてしまったり、
へたをすると、雑誌自体を紛失してしまったりするのがつね。

うん。とりあえず索引がわりにわたしが読んだ箇所ぐらいは
記録しておきましょう。

最初に気になったのは週刊ポスト2011・4月15日号。
そこに掲載の八木秀次「検証 大新聞の『震災報道』」。
そこに3月16日に流された天皇陛下のビデオメッセージに
関する各社の取り扱いを比較しておりました。

「各紙の性格の違いを際立たせた。朝日以外は一面で報じました。」
とあります。日経はというと「『苦難の日々、分かち合う』(3月17日付朝刊)の見出しで、お言葉の全文を一面に掲載していた。」とあります。

その日経の古新聞は手に入らなかったのですが、
朝日新聞3月17日朝刊は手に入りました。
すこしその紹介。
まず一面の「朝日新聞」という題字下に目次らしき箇所があります。
一面に朝日は天皇陛下のメッセージ紹介が見あたらないのは、
わかっていたのですが、それでは一面の目次はどうだったか。
4面・13面・15面・・・と震災関連ニュースの目次はあるのですが、
一面のどこにも「天皇陛下」の言葉が見あたらない。
ちなみに、その目次の一番したには
「▼『しつもん!ドラえもん』は休みました。」とある。
目次にドラえもんは、あっても
天皇陛下は、見あたらない、そんな朝日新聞。
うん。震災に襲われ逃げ込んだ際には、避難所で朝日新聞だけは読むまい。新聞の目次にも載せないとは、なさけない。言葉もない。
あったのは、四コマ漫画がある社会面から3ページもどった29面。
天声人語のスペースを立てにしたサイズに陛下の写真をはめこみ。
最後には「アサヒ・コムに全文」とある。
被災地で、インターネット検索でもしろというのでしょうか。
被災地の方々には、全文を新聞では読ませないぞ、という頑迷さ。
こういうとき、くっきりとする、朝日新聞の姿。
天皇陛下のお言葉のなかには、
「・・・これを被災地の人々にお伝えします。」という表現もあります。
そういう情報を伝えまいとする新聞がある。
ということを再確認。肝に銘じておきます。

ちなみに雑誌では
「WILL」五月号には、巻頭随筆のあとに
まず「天皇陛下のお言葉」全文掲載。
「文藝春秋」五月号には
侍従長川島裕(ゆたか)による「天皇皇后両陛下の祈り」。
副題は「厄災からの一週間」。
そのなかに「天皇陛下のお言葉」全文掲載。
「歴史通」五月号には
佐々淳行氏による「天皇 最高の危機管理機構」という
13㌻ほどの文。
「週刊ポスト」5月6・13号には
富岡幸一郎氏の「天皇『被災地巡幸』の御心」という
6ページほどの文。
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民族魂。

2011-05-05 | 短文紹介
清水幾太郎の「日本人の自然観」は、
さまざまの例文をひきながら、論文としてはすぐれているのかもしれませんが、私には、ちっともつまらないものとして写りました。その追記には、こんなふうに書かれてもおります。「・・なお書き続ける筈であった以上の部分が、私の外で冷たく完結してしまっていて、もう手のつけようがない。何度読み直しても、一体、何を書き足そうとしていたのか、それさえ明らかでない始末である。しかし、読み直しているうちに気づいたことであるが、この文章は、結局、自叙伝の一つの試みと見ねばならないようである。・・・やはり、自分の直接の経験の処理という意味では自叙伝の一種なのであろう。・・」(「清水幾太郎著作集11」p223)

比較しても、あらためて、貴重だと思えたのが寺田寅彦の「日本人の自然観」の方でした。
ということで、掲載年月日の比較。

寺田寅彦の「神話と地球物理学」(昭和8年)
寺田寅彦の「日本人の自然観」(昭和10年)
清水幾太郎の「日本人の自然観」(昭和35年)

その寺田寅彦の「日本人の自然観」は
岩波文庫「寺田寅彦随筆集」第五巻で手軽に読むことができます。震災のあとでもありますし、私には大変輝いている論文だと思えます。その無常観の取り扱いから、短歌・俳句に及ぶ考察が透明な洞察力を秘めているのでした。さて、まあこれは文庫でも読めますので、読まれることをお薦めして、つぎに、寺田寅彦の「神話と地球物理学」について、こちらは岩波文庫の全五巻の随筆集にはありませんでした。全集を見なければわからないようです(どこか他の文庫にはいっているかなあ?)

さてっと、寅彦「日本人の自然観」に、こんな箇所がありました。

「地震によって惹起される津波もまたしばしば、おそらく人間の一代に一つか二つぐらいずつは、大八州国(おおやしまのくに)のどこかの浦べを襲って少なからざる人畜家財を蕩尽したようである。動かぬもののたとえに引かれるわれわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。・・・」

では、「神話と地球物理学」を引用していきます。
はじまりは

「吾々のように地球物理学関係の研究に従事しているものが国々の神話などを読む場合に一番に気のつくことは、それらの説話の中にその国々の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していることである。・・」

そして神話の話にうつるのでした。ここではヤマタノオロチへの言及を引用。

「高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(おろち)の話も火山から噴き出す溶岩流の光景を連想させるものである。『年毎に来て喫(く)ふなる』というのは、噴火の間歇性(かんけつせい)を暗示する。『それが目は赤酸漿(あかがち)なして』とあるのは、溶岩流の末端の裂罅(れつか)から内部の灼熱部が隠見する状況の記述に相応しい。『身一つに頭八つ尾八つあり』は溶岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流する様を暗示する。・・・『その腹を見れば、悉に常に血爛(ただ)れたりとまをす』は、やなり側面の裂罅から窺われる内部の灼熱状態を示唆的にそう云ったものと考えられなくはない。『八つの門』のそれぞれに『酒船を置きて』とあるのは、現在でも各地方の沢の下端によくあるような貯水池を連想させる。溶岩流がそれを目がけて沢に沿うて下りて来るのは、あたかも大蛇が酒甕(さかがめ)を狙って来るようにも見られるであろう。・・・」

まだ神話への考察がつづくのですが、ここでは最後の箇所を引用しておわります。

「昨日の出来事に関する新聞記事がほとんど嘘ばかりである場合もある。しかし数千年前からの云い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。少なくも我国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりも更により以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。
以上はただ一人の地球物理学者の眼を通して見た日本神話観にすぎないのであるが、ここに思うままを誌(しる)して読者の教えを乞う次第である。」


ちなみに、「神話と地球物理学」は、わずか5ページほどの文。
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2つの「日本人の自然観」

2011-05-04 | 短文紹介
そういえば、
中公文庫の、清水幾太郎著「私の文章作法」。
その解説は、「狐」さんこと、山村修。
ちなみに、この文庫は1995年9月印刷発行。
そうなんだ、阪神・淡路大震災の年に出た文庫。
そんなことを、あらためて気づいたのでした。
ということで、2つの「日本人の自然観」。

ひとつは、寺田寅彦著「日本人の自然観」(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」)
ひとつは、清水幾太郎「日本人の自然観」(講談社「清水幾太郎著作集11」)


以下の「狐」さんの解説から、
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の解説には、


「たとえば関東大震災を初めて思想史のサイドに取り込んだ清水幾太郎の論文『日本の自然観』が感動的なのは・・」

「『日本人の自然観』のように研ぎ澄ました批評性で震災を読みほぐす文章を書く一方、清水幾太郎は、自身の直接の罹災体験を語って、ほとんど身体感覚的な怖さをさえ誘発する文章も書いた。『日本人の自然観』が切実に胸に沁み、腹に応えるのは、自叙伝『私の心の遍歴』の一節に書かれた関東大震災の恐怖の直接性、肉体性に気づくときである。」

「大正12年、16歳の清水幾太郎が丸ごと呑み込んだその混沌を、昭和35年、52歳の清水幾太郎が『日本人の自然観』という震災論を書くことで固定化した。一つ一つ堅く手応えのある論を立て、鋭い明示性を帯びる表現を組み上げた。すなわち文章を書くとはどういうことか、清水幾太郎はそれを『私の心の遍歴』の一節と『日本人の自然観』とによって、力を窮めたダイナミックな形で見せているのである。」
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問ひし君はも。

2011-05-03 | 詩歌
どうやら、阪神・淡路大震災あたりから、地震の活動期へと移行したらしい。というのが、尾池和夫氏や鎌田浩毅氏の予測なのだと理解します。
さてっと、活動期のはじまりの阪神・淡路大震災について、以下読み直して気づいたこと。

その頃、司馬遼太郎は風塵抄の連載をしておりました。震災のあとは、114「市民の尊厳」からはじまっておりました。つぎの115「渡辺銀行」には、こんな箇所。

「・・・昭和は・・開幕早々の昭和二年(1927)の三月には、金融恐慌がはじまる。すでに四年前の関東大震災による震災手形が、政府の財政をくるしめていた。また倒産寸前の企業が巷に満ち、さらには台湾銀行までつぶれるといううわさもあった。昭和前期という悪魔に魅せられたような二十年間は、このようにしてはじまった。・・・・
翌々年、アメリカでおこった『大恐慌』が、日本をふくむ世界をおおうのである。いまとちがい、世界の一方に誕生早々のソ連があった。この広大な面積と人口をもつ国だけが社会主義経済をとっていたために、『大恐慌』は及ばなかった。そのことが、世界に左翼思想がひろがる強烈な原因となった。同時に、右翼も生んだ。左翼に反発してのことで、当然のことながら、明治時代には、そんなことばもない。・・・
渡辺銀行の倒産からの昭和史は、異常つづきだった。浜口首相が狙撃され(昭和五年)、陸海軍将校らが首相官邸を襲い犬養毅首相を殺した(昭和七年)。また陸軍将校らが暴発して白昼、政府の要人たちを襲った(昭和十一年)。異常が異常を加算するようにして、ついに大戦争をおこし、国そのものをうしなうのが、昭和前期史である。・・・」

つぎの116「持衰(じさい)」には、こうありました。

「・・・言いわすれたが、古代の【持衰】は、暴風雨がくると、日本武尊伝説のなかの弟橘媛(おとたちばなひめ)がそうしたように、型として海中に身を投ずる。・・・
日本は、英雄の国ではない。・・・
戦前の軍隊でもそうだった。欧米の歩兵は将官が部隊の先頭近くにいるが、日本の歩兵の場合、後方もしくは中どころにいた。源平時代にさかのぼっても、そうである。行政組織もそうだった。たとえば、江戸幕府は武権でありながら、意思決定はつねに遅く、いつも衆議主義で、例外なく突発事態にはおろおろした。・・・・
【持衰】の気分になってみると、そのなまぬるさがよくわかる。・・・
【持衰】という古代人になってみると、その足りなさを狂おしく指摘するよりも、ありのままの政治と行政を【持衰】の祈りによって勇気づけ、はげますほかない。」

 この「持衰」は1995年3月6日に掲載されております。
わたしが思い浮かべたのは、1998年9月のビデオテープによる基調講演のことでした。
それが本となり、美智子皇后さまの「橋をかける 子供時代の読書の思い出」。
そこには、こんな箇所があったのでした。

「・・・父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。・・・倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子・・・皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。

  さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の
           火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも

このしばらく前、健(たける)と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、・・草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。」

こうして歌を紹介したあとに、以下美智子さまは、ご自分の心を語られているのでした。

「・・・・弟橘の言動には、何と表現したらよいか、健と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ・・・」こうつづき。
さらに、読みすすむと、この箇所がありました。

「・・古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。・・・」


今度東日本大震災のあとに読み直すと『象徴性』という言葉にあらためて気づかされるのでした。
こうして、読み直してみると、阪神・淡路大震災のあとに、その状況に寄添うように、司馬さんの文と美智子さまの文とがつづいたような気がしてくる。

ところで、地震はまだこれから。
鎌田浩毅氏はビートたけしとの対談で、こう指摘するのでした。


鎌田】 日本列島は今、地震の活動期に入ったと言われています。ここ二十年ぐらいは今のような頻度で内陸の地震が起きます。その最後に、東海、東南海、南海地震が起きる。地震学者の間では、これらの地震は2030年代に来ると言われています。つまり2030年から40年の間にほぼ確実に大地震がくる。この三つは連動して同時に起こる可能性があって、その後に富士山が噴火するかもしれない。江戸時代にも同じようなことがあって、三連動した宝永大地震が起きた49日後に富士山が噴火しているんです。・・・地球科学は常にプラスマイナス二十年ぐらいの誤差がありますから、実は今年起きてもおかしくないんです。東海地震、東南海地震、南海地震は百年に一回ぐらい地震が起きるのですが、三回に一回、つまり三百年に一回、三連動の大地震が起きる。・・・三回に一回のときに、富士山もご丁寧に噴火したというのが前回の宝永噴火です。前回は1707年でちょうど三百年ほど前。ですから、この次に起きる大地震が嫌なことに三連動の番なんですよ。(「新潮45」5月号)
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五月晴れ。

2011-05-02 | 詩歌
いつのまにか、五月。
今月は、寺田寅彦の地震にまつわる文を読むぞ。

パラパラと、年代順の寺田寅彦俳句をめくる。
寺田寅彦は1878(明治11)年~1935(昭和10)年。
享年58歳でした(太田文平著「寺田寅彦」新潮社の巻末年譜による)。

年譜をたどると、
明治31(1898)年21歳
「 田丸卓郎のすすめで物理学専攻と決意する。特待生となる。漱石を中心に俳句結社。」その明治31年の俳句に

    五月雨(さみだれ)や窓を背にして物思ふ

明治36(1903)年26歳
「 東大物理学科卒業、大学院に進学し実験物理学研究。
 漱石帰朝。震災予防調査会嘱託となり、本多光太郎と共に海水振動調査に従事する。」その明治36年の俳句に

    五月雨や根を洗はるゝ屋根の草


大正12(1923)年は寅彦46歳。

「『藪柑集』、『冬彦集』出版。東洋城と連句研究。9月1日関東大震災に遭遇する。震災被害調査に従事、地震研究所設置の相談にあずかる。気象学開講。土木帝都復興委員会で『旋風について』講演。」


大正14(1925)年48歳
「帝国学士院会員、震災予防評議会評議委員となる。酒井悌にセロを習う。数物学会で『沿面燃焼の伝播について』・・・・」この年の俳句はひとつ。

   葉がくれに秋をうなづく柘榴(ざくろ)哉   


さて、晩年の昭和9(1934)年57歳の句に

   通されて二階眩ゆき若葉哉

それが、亡くなる昭和10年では

   通されて二階眩しや五月晴



(以上俳句は1997年10月発行の岩波書店「寺田寅彦全集」第11巻より)



話はかわります。
阪神・淡路大震災は平成7(1995)年でした。
司馬遼太郎が亡くなったのが平成8年2月。享年73歳。
阪神・淡路大震災(平成7年)では、7月5日~7日に
NHK教育テレビのETV特集で
山折哲雄氏と司馬さんが対談
(NHK出版から「日本とは何かということ」と題して出ております)。

その対談のなかに、こんな箇所がありました。

山折】 ・・・寺田寅彦との比較で申しますと、同じ時代に和辻哲郎が『風土』という作品を書いておりますが、あの中で、日本の風土の特徴をモンスーン型と言って、そこから日本人の性格、国民性のようなものを引き出しています。こんどの阪神・淡路大震災の後、読み返してみましたら、驚くべきことに、『風土』の中で、和辻さんは地震のことに一言半句もふれていないのですね。当時、あの和辻さんは関東大震災を経験していたはずなのですが、それにもかかわらず日本人を論じて、なぜ地震にふれていないのか。これはいったい何だろうと思いました。ところが、その和辻さんが『風土』でとくに強調しているのが、台風なのですね。・・・(p70~71)

山折】  今日までの日本人は、そのような和辻流のものの見方の影響を強く受け、それに慣れてしまったのではないか、――しかし、これは私の独断かもしれません。ともかく、寺田寅彦と和辻哲郎が昭和初年代において展開した日本文化論というか、日本人論というか、日本の風土の性格にかんするそれぞれの洞察を、きちんと位置づけし直す必要があるのではないかなという気がしています。
司馬】 それは面白いなあ。寺田寅彦のほうが、ちょっと魅力的ですね。(p72)

司馬】 ・・・しかし寺田寅彦は、やはり物理学をもっていましたからね。やはり理科系の方が人文を論じたり、社会を論じたりすることの生きいきした感じというのが、寺田さんにはありますね。・・・(p74)


うん。今月は
五月晴れの下
五月雨の下で
寺田寅彦を読むぞ。
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