和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都・仁和寺。

2020-07-13 | 京都
行きもしないのに、親しいイメージのある京都・仁和寺。
はい。徒然草と方丈記の両方に、仁和寺は登場しております。
それで、身近さが感じられる。直接出かけたこともないのに(笑)。

淡交社「古寺巡礼京都⑪」は仁和寺(昭和52年)。
古本をひらくと、仁和寺の入場券1枚と、入場の際のパンフレットが
はさんでありました。古本の前の持ち主は、仁和寺へ行ったようです。

さてっと、11頁の文を載せているのは山本健吉氏。
ちなみに、山本健吉氏は明治40年長崎市生まれ。
そのはじまりを楽しく読みました。
こうはじまります。

「私が仁和寺の名を始めて知ったのは、中学生の時分、
国語の教科書によってである。徒然草の仁和寺の法師の
滑稽な話が載っていたからだ。
その次には、やはり中学生の時分、方丈記を読んだ。
そこには大飢餓の時に見せた仁和寺の隆暁法印の
きわだった行為が書かれていた。
上方に生まれ、毎年春には御室の桜を見に行った人
なら知らず、大方の日本人は、私と同じく仁和寺の名を
兼好と長明とによって知ったのではないか。

私の中にある仁和寺のイメージが、まずこの最も人に知られた
二冊の古典にもとづいているのは、はたして偶然であったかどうか、
そこに語られた話は、一方は剽軽(ひょうげ)た人間の失敗譚であり、
他方は厳しい決断を伴う人間行為である。そして、その雙方がどちらも
仁和寺に関連して語られているのは、仁和寺の持つ二つの面を
見せているのではないかと私には思われた。」

はい。こうして、徒然草と方丈記の記述を丁寧に紹介して、
おもむろに、御室桜の時期に訪ねた話につながります。

「仁和寺が京洛の人たちに親しまれるのは、それが花見の名所
だからである。境内には、中門をはいってすぐの左手に、
二百株ばかりも桜の木が植えられていて、お室桜と言って、
京の花見の最後とされていた。そこに茶店が座敷をしつらえていて、
私たちも・・・招ばれて、酒盛に加わった。丈の低い八重桜で、
灌木状に根元から枝は八方にひろがり、花はぼってりとした牡丹桜である。
師が私たちに配られた手拭に、唄が染めてあった。
『はながひくても人が好く』。だからお多福桜という俗名もあるそうだ。
・・・・・」

これから山本健吉氏の紹介は本題へとはいってゆきます。
はい。わたしはここまでで、もう満足。



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実行実践する鴨長明。

2020-07-12 | 京都
堀田善衛著「方丈記私記」(筑摩書房)は
東京大空襲のありさまと重ねながらはじまります。
そのはじまりの方に

「おそらくは私が鴨長明という人を、別して歴史的人物、
歴史上の人物――に違いもないのだが――と思っていない、
あるいは歴史的人物として扱っていない・・・・
彼は、要するにいまも私に近く存在している作家である。
私はそう思っている。・・・」(p30~31)

ちょっと話題をかえて、「いまも私に近く存在している」
ということで思い浮かんだのが、
ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)でした。
京都の東山に建てた山荘へ言及したなかに、

「義政の山荘の中で、二つの建物だけが残存している。
おそらくこの二つの建物の最も意外な特徴は、
室内の造作が我々を驚かせないということであり、
また義政の世界と我々自身の世界を膨大な時の流れが
隔てているという実感を与えないことである。それどころか、
どの部屋も実に見慣れた感じで、ふだん我々が目にする
無数の日本の建物にある部屋とあまりによく似ているので、
それが500年前の部屋であることを忘れてしまいそうになる。」
(P135)

もどって、堀田善衛著「方丈記私記」に
鴨長明の方丈の家を語った箇所が思い浮かびました。

「それにしても、妙な家を考えたものである。
方丈、四畳半、高さは七尺で、組立て式で移動式である。
釘やなんぞのかわりに、材木の継ぎ目には懸金(かけがね)をかけた。
つまりは組立て式、である。車に積んでたったの二台、二両。
こういう桁はずれの家を、彼はおそらく大原でみずから『差図』(設計図)
を引いて考えたものであったろう。いろいろと考え、いろいろな差図を
引いてみて、この組立て方式移動式がよいということになった。
よいということになったものを、実行実践するところに、長明がいる。
考えるだけではない。本質的にこの男は実践者である。

理屈は、いわば後から来る。この方丈記の文体の腰の軽さ、
軽みは、他にもちろん、もっと重要な理由があるにしても、
その一面としては実践者の文体だ、ということがあろう。
無常観の実践者、という背理がそこにある。」(P180)

うん。せっかく引用したので、
もうちょっとつづけておわります。

「『積むところ、わづかに二両、車の力を報(むく)ふほかには、
さらに他の用途いらず。』――車賃を払うことのほかには、
他の費用はまったくいらない。ということは、彼がこの移動式
住宅を日野山に据えつける以前に、最小限のところで一度は、
二輛の牛車に積んで動かしたことがあるということであろう。
大原山から日野山へと、たとえば京郊外の春の日に、牛車二台で
ギイギイとのんびりした音をたてながら、この家の材料を積んで、
その牛車のそばに自らつきそって歩いている。
神主から転向した坊主頭の老長明を想像してみる・・・・

出家、世捨人、隠者というもの、それは内心のこととして
如何なる深く刻み込まれたような思想的、宗教的、文学的問題を
もつにしても、外側からこれを見るとき、必ずやそこに、一抹の、
いや一抹などというにとどまらぬ、一種の滑稽感が身に添っていた
筈である。そんな外面、外見(そとみ)のことなど拘るべきでないと
言う人があるであろうが、如何に世外に出た人といえども、
悲しいかな、と言うべきか、滑稽にも、と言うべきか、
外面、外見の現実を消し去ることは出来ない。」(P181)

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描いたのは海北友松。

2020-07-11 | 京都
水墨画というのでしょうか、
墨絵というのは、どうしても
絵と私との間に、うすい膜がかかっているような
ボンヤリした印象しかありませんでした。ですから、
京都で襖絵の前を通っても、素通りしていただろうなあ。

それが墨絵を見る糸口がどうやら出来ました(笑)。
海北友松(かいほうゆうしょう)から入れば理解できる。
うん。そんな水先案内人と出会いました。
ゴッホを理解するのに、ゴッホの手紙が参考になるように、
墨絵を理解するのにも、案内人の言葉が必要でした(笑)。

秦恒平氏にも、案内人がおりました。
「私の場合、そんな『学問』の極く手はじめに、
よく土居次義先生に連れていただいて建仁寺内を
いろいろ観てまわった。・・・・・奥床しげな寺の内へ
・・・ひっそりと隠れいる沢山の佳い障壁画を、
土居先生は我々不勉強な大学生に実に丹念に
紹介し解説し、鑑賞のための道をつけて下さった。
そのお蔭で、私が建仁寺を書くといえば海北友松だろう、
長谷川等伯や俵屋宗達の話だろうと思う読者もあった
かもしれないほど、私はそんな16,7世紀頃の日本の絵が
好きになってしまい、臆面なく熟さない感想もこの数年間に
沢山書いてきた。」(p76「古寺巡礼京都⑥」建仁寺)

はい。秦恒平氏の本は、もっていないので、ここまで。
バトンを竹山道雄氏つなげてみたいと思います。

うん。絵の紹介はやめて、竹山道雄氏による
海北友松を紹介した箇所のみを引用。

「海北友松は近江源氏の武将の家に生まれ、
少年時代から東福寺に入って禅の修行をし、
絵を元信に学び、梁楷を好んだ。時は戦国の世であり、
・・・このころの武人の生活がいかに一瞬の油断も隙も
ならないものであったかを、われわれはいま西本願寺に
ある飛雲閣に見ることができるし、またもっと時代は下るが
二条陣屋でも見ることができる。こういうところではつねに
襲われる用心をして、家屋を隅から隅まで防衛のために
細心の工夫をしている。そして、この危険な生命を、豪華な
金碧画で飾ったり、幽玄な能を舞ってなぐさめたりした。
・・・・・
友松が41歳のとき、天正元年に、織田信長が浅井長政を
小谷城に滅ぼした。このときに、友松の父海北善右衛門綱親も
自刃したが、友松は東福寺にいたので難をまぬかれた。
このような戦乱の世に生きて、友松は武士であることを願い、
武将に親しくして、自分の芸術にはそれほど重きをおかなかった。
子の友雪が父の肖像を描き、その賛に
『敢てその芸を専らにすることを欲せず、志は武道に在り、
努めて弓馬を学んだ』とあるそうである。
親友の斎藤利三が、山崎の合戦で捕らえられて
粟田口で磔にされたときには、友松は槍をふるって衛兵を追って、
利三の屍をうばって真如堂に葬った。こういう人の絵に
みなぎっている命がけの気合は、このころの時代精神だった。
・・・」(p140・竹山道雄著「京都の一級品」新潮社・昭和40年)

はい。竹山道雄氏は、この文に
「・・描いたのは海北友松である。いまはみな軸にして、
京都博物館にある。博物館だからちょうど展覧の際に
行きあわなければ見ることができないが・・・」(p139)
ともありました。

うん。出かけても見ることができないのならば、
美術集の本でもいいやと思う私がいます(笑)。

講談社の「水墨画の巨匠④」(1994年)が友松でした。
はい。古本で京都博物館開館120周年記念「海北友松」
の持ち重りするカタログ冊子とともに、買いました。

ちなみに、「水墨画の巨匠④」の最後の図版解説に
建仁寺の襖を床と天井とをふくめて取った写真が
掲載されておりました。その竹林七賢図が、忘れられません。
建仁寺の襖絵としては、もう見ることができないからかも
しれないのですが、その部屋のたたずまいと
襖絵とのバランスの中での絵の構図が鮮やかです(p99)。
建仁寺とともに、呼吸しているような襖絵なのでした。
これももう、写真でしか見ることができないのなら、
安い古本の美術書も捨てたものじゃありません。





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昭和10年生れと、建仁寺。

2020-07-10 | 京都
淡交社「古寺巡礼京都」⑥(昭和51年)は、
文は秦恒平。写真は浅野喜市。

秦恒平氏の文は10ページ。
短文ですが、奥が深い。どこから、引用しましょうか。
こんな箇所はどうでしょう。

「境内で遊んだが、界隈の俗人が暮しの中で建仁寺ないし
坊さんと触れあうのは何より托鉢の時だ。三、四人が班をつくって、
『おーおー』と謡うごとく喚ぶごとく、粗衣に素足のわらじばきで
町なかの小路小路を一列に練り歩く。時には独りで家の前に立つ
坊さんもたしかにいた記憶があるが、いずれにせよ建仁寺僧堂の
托鉢行は、朝早の、かんかんと空まで凍てつく季節にひときわ
印象的な風物詩であった。」(p71)

うん。建仁寺の場所はどこか?

「そもそも祇園都踊りで名を売った歌舞練場のあたりも、
正伝永源院から東側も北側も、つまりは祇園花街が
建仁寺北辺を蚕食してきたことは紛れもない。
皇都の禅刹に嚆矢をなした東山建仁寺と、
月は朧ろの東山、祇園の色里とはもう久しく
建仁寺垣一重の隣同士であり・・・・・
祇園ばかりではない。西、鴨川、疎水ぞいには
やはり遊里宮川町があり、川向う四条より北に先斗町
・・・・・・・・かくてまた色不異空、空不異色の世界で
京都はあり、建仁寺界隈はあるのだった。
『建仁寺の学問づら』という寺風には一枚裏にそれだけの
味を隠している。『学問』という二字がふしぎに生きてくる。」

台風の被害という指摘もありました。

「御多分に漏れず明治このかた建仁寺も
だいぶん内証は淋しかったようだ。
塔頭も減ってしまった。台風の被害で
本坊を中心に手痛いめに遭った頃はよくよく
苦しいに違いないと我々の家でさえ噂した。
正伝院と永源院が正伝永源院という一つの塔頭に
まとまった時に、織田有楽斎が造った茶室如庵が
どこやらの富豪に身売りされて大磯へ、昭和46,7年
には犬山の有楽苑に運ばれた、その身売り当時の
面白い話を聴いている。・・・」

うん。最後の方も引用しなくちゃね。

「佳い襖絵や佳いお庭があるからそのお寺が立派
というほどの、妙な錯覚に我々は嵌り過ぎている。
 ・・・・・・
建仁寺をお寺さんとしてふだんに意識し親愛している
祇園界隈の者には、却って・・・襖絵や庭や茶席は従うのものであり、
縁も薄い。一生の内に夢にもそんなたいしたものがあの
『けんねんさん』に秘蔵されているなどと、一度も知らず
気づかない人ばかりが町じゅうに溢れ返るように
建仁寺四囲四方に昨日も明日も暮しているのだ。」

はい。建仁寺を10頁で教えてくれていました。
この秦恒平氏が、昭和10年生まれです。

はい。明日のブログは、海北友松。
建仁寺の芸術へと触手を伸ばします。



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若冲と相国寺。

2020-07-09 | 京都
「古寺巡礼京都」②は、相国寺(淡交社・昭和51年)。
足立巻一氏の文が掲載されておりました。
題して「若冲と大典 相国寺で」。

「早春から初夏にかけて、相国寺の三度の法要に
列席する機会があった。・・・」とはじまります。

芸術家の若冲をとりあげ、興味をそそられました。

「以前、足利義政のことを調べる必要があって相国寺の
墓地をたずねてみると、義政の小ぶりな宝篋印塔は
すぐわかったが、そのすぐ左には藤原定家の五輪塔、
右には若冲のまぎれもない墓がならんでおり、この
奇異な取り合わせにはいささか面喰ったことがある。

あとで聞けば、これら三つの墓は、それぞれ別々の子院の
墓地にあったのが、戦後墓を整理して一か所にまとめたとき、
著名なために三基がならべられたらしい。
若冲の墓は・・・俗臭のない、いい文字である。
裏面にはかなり長文の碑銘が刻まれている。
相国寺第百十三世住職の碩学大典禅師の撰と書である。」

この大典禅師と若冲の関係が、このあとに
語られてゆくのでした。
まあ、私はパラパラとひらいて引用するばかり(笑)。

「若冲がそのころ稀有の、強固きわまる個性の持ち主であった
ことは、その作品を一見すればだれしも疑いのないことである。
・・・・・若冲は狂気と思えるほど自己に忠実であったとともに、
嬰児のような明るさがその面貌にはひろがっていたような気がする。」
(p72)

ここからが、相国寺と若冲との関係深さを味わえるのですが、
ここには、最後の方だけを引用しておわります。

「若冲が寄進した釈迦・普賢・文殊画像と『綵絵』は、
明和六年(1769)相国寺閣懺法に際して方丈で飾られた
という記録がある。稀代の壮観であったにちがいない。
その花も草も軍鶏も小鳥も魚介も、華麗であるだけでなく、
すべて生きているものの表情をあらわしている。・・・
それが三尊画像を中心にいっせいにならべられたとき、
この世に生きるものすべての法悦境とも見えたであろう。

しかしいま、その『綵絵』はすべて相国寺には無い。
明治22年宮中へ献納され、御物となったのである。
それには金一万円が相国寺に下賜された。
献納、下賜といえば体裁はいいが、売ったのである。
相国寺の寺勢は大典の示滅後から下降しはじめ、
それが明治維新以後は極度の財政難となった。
それを当時では莫大な一万円によって切り抜け、
いまの寺地もほぼその金で確保されたという。
若冲は没後、相国寺の危機を救ったということになる。
・・・・献納のとき、三尊画像だけは寺に残された。
わたしが観音懺法で拝した普賢・文殊がそれである。
・・・・・」(p77)

はい。相国寺の写真にまじって、三尊画像も
この本に写真が載っておりました。




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「人生の楽園」。

2020-07-09 | 京都
テレビ番組で、土曜日の夕方に『人生の楽園』。
7月4日はテレビ欄に「貝殻動物」とありました。
一度取り上げられた方々を、コロナ禍のなか
再登場されているような感じでした。
鎌倉海岸で、夫婦して貝殻をひろっている。
それを持ちかえって、家で細目に仕分けして
ストックされております。
その貝殻を接着しながら、動物たちを作り上げる。
それを、表玄関の脇の自家製棚に飾られている。
そんな流れで番組が作られておりました。

そこに、ストックされた貝殻のきれいなこと。
海岸で拾ってくるのですから、貝殻の断片かと
思いきや、きれいな貝殻が選ばれているようです。

はい。さっそく思い浮かんだのは、
先頃買った古本でした。
「古寺巡礼京都」の第一期20冊。
数冊をパラパラめくっていると、
「古寺巡礼京都」の発刊パンフレットが
はさまっておりました。8頁で各巻一枚の
カラー写真もついて、意気込みが感じられるパンフです。
最後のページの下に特約店とあり、そこにハンコで店名が
「音羽堂書店 京都市七条大宮西入」と押されています。

うん。そこで、この古本の持ち主は本を注文したのかもしれません。
そして、全冊が揃って本棚に並べて置いたのかもしれません。
埃をかぶっていないので、扉式の本棚にはいっていたのかも(笑)。

いつかは、開こうと思いながら、忙しくてそのままに本棚に眠っていて、
きれいな貝殻よろしく、ひらいた形跡もない本が、そのまま古本として
出回った。そんなふうに、この古本の来し方をあれこれ想像します。

さて、パンフレットには「刊行のことば」という夢が語られております。
その最後にはこうありました。
「・・・・名所旧跡という、安直な観念をすてて、その深奥にひそむ、
人間真実の発掘のために旅立とうとする。それが『古寺巡礼京都』
20巻の刊行趣旨である。」
そのあとにパンフは、「編集の姿勢」を三つ示しておりました。
うん。率直でステキなので、こちらも引用。

①その門をたたき、名刹の環境に身をおき、
風雪に耐えてのこる、寺域の結構を見る
②草創以来の歴史の声を聴き、そこで人間の
心の旅路のあとを追体験する
③数多い宗教遺産の美の秘密を探り、
その精神造型の根源にある魂のあり方を見る。


はい。貝殻に耳をあてて、潮騒をきくように、
このパンフで予約注文をされた方がいた。
と思ってみるのでした。

ちなみに、書き手も同じだったのかもしれない。
と思うのは、「東寺」に文を書いた司馬遼太郎さんの
そのはじまりに、こんな箇所があるのでした。

「・・・淡交社の白井氏は、上方風の人間批評家で、
それだけに非常なユーモリストだが、町中のホテルの
ロビイで会ったとき、大股をひろげて上体をかしがせながら、
『東寺について書いとくなはれ』とかれがいったとき、
私はこの種の、自分の小説のこと以外の雑事を苦手とする上に、
第一、東寺について何も知らない。しかし断わるよりも何よりも
白井氏のえたいの知れぬ可笑味に気圧されて断わることさえ
阿呆らしさが先立ち(この変な気分は白井氏を知らずにはわかりにくいが)
ついひきうけた。・・・・」

司馬さんひとりじゃなんなので、
「建仁寺」の文を書いた秦恒平氏の文からも、
この箇所を最後に引用。

「第一、今度の淡交社の企画に共感したのは、観光寺院ならぬ
本来の宗教、本来の信仰、本来の修行勤行に即して
京都の寺々を再認識するという一点だった。」(p76)

はい。この20冊シリーズを一冊古本で210円で購入したのは、
つい、海岸できれいな貝殻を拾ったような、そんな気がしてきます。
蛇足ですが、このシリーズは好評だったのか、続編もつづき、
さらに新シリーズとしても出ているようです。
ですが、私はこれで満腹。


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土佐人の明晰性。

2020-07-07 | 京都
司馬遼太郎と安岡章太郎の対談を
本棚から取り出してくる。うん。読み直したかった。
安岡章太郎が『流離譚』を書いた直後の対談です。
こうはじまります。

司馬】 『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、
    何十年に一作というようなものですね。
安岡】 おそれいります。・・・・・・・

  後半には、こんな箇所。

司馬】 ・・・いま一つは、さっき郷士の役割ね。よく言われるんだけど、
薩摩郷士は顔を上へ向けている、土佐郷士は下に向けている、
つまり百姓のために働くんだ、という意識がある。
薩摩郷士は、お家とか城下士がどういうふうに動くか見る。
『流離譚』に出てくる風土というのは、荒っぽく言えばそういうことになる。


うん。そういえば、門田隆将さんは高知出身でした。門田さんの
ジャーナリストの資質は、土佐の風土と関係がありそうですね。

前後があちこちしますが、司馬さんはこうも指摘します。

司馬】 ・・・・よくわからなかったけど、だんだんわかってきたのは、
簡単に言うと土佐には曖昧言葉がないということ。
イエスかノー。これは、土佐人の明晰性と関係があるね。
シンガポールの山下奉文、バーシバルに『イエスかノーか』と言ったでしょう。
あれは同時代でも評判悪かった。旅順開城のとき乃木さんはステッセルに
そんな態度はとらなかったもんだとか非難されたけど、あれは一つは、
土佐ーー山下奉文は土佐人ーーはまず型の文化に敏感でない。
いま一つは土佐弁の特徴なんだ。イエスかノーしかない。

土佐弁がそうであるように、土佐の人間は進退までが明晰すぎるんだよ。
そのために幕末の騒乱でずいぶん死ぬ。・・・・
イエス・ノーの中間発想がないからだ。・・・・・
ぼくにはわからない。わからないけれども、日本では非常に不思議なことだね。

・・・・言語文化というものが乏しいのかといえば、違うんだね。
土佐には昔から名文家が多い。科学者では寺田寅彦がいますね。
末裔には安岡章太郎がいる。とにかく曖昧な文章じゃない。
もっとも安岡の場合は非常にデリケートな文章なんだが・・・。

安岡】 ロジックはありますよ(笑)。

司馬】 ロジックの問題を言ってるんじゃないんだ。
土佐風の明晰さがあるということ。それはね、
近代社会に入るのに、非常に便利がよかった。
憲法の条文一つでも、明晰ですからね。

・・けれども、山内家というのは非常に非文化的な家で、
ただ関ヶ原の勝ちに乗って(土佐へ)きただけだから、
京都文化が入ってない。たとえば土佐はお正月でもお節料理はしない。

安岡】 そう。

司馬】 ・・・・地生えの土佐人いうのはお節料理をしない。
近頃はそうでもなくなったけど、三世代前ぐらいの昔は
お客が来てもお茶を出さなかった・・・・・
お客が来ればお茶を出すのはよその県のことだ。
飲みたくなくてもお茶を出す、これはマナーでしょう。
そういうマナーは、隣りの徳島県にも愛媛県もある。
ところが土佐はない。それは土佐の大きな特徴だし、
幕末に志士を出し、明治になって自由民権の志士を
出すという風土は他県はない。土佐だから出る。

 対談の最後の方には、岩崎弥太郎を語っていました。

司馬】 ・・・・・若いころの岩崎が何かのことで人にくっついて
江戸に行く。江戸いうところは、田舎から出て来たら、
今なら青山か六本木に行ったりするが、
当時は桜田門の近くで大名行列を見る。
あれは加賀様、こちらは井伊様と見物する。
そのときに、岩崎はこんな馬鹿なことをやってる
江戸はいずれ滅びると考えた。つまり、
さっき言った京都文化が土佐には薄くしか来なかったということと、
地下浪人という場所から見ると、江戸城の周辺という、
マナーだけでできあがってる権威ある風土を見せられたときに、
それにいかれてしまうか、逆に反撥するか、どっちかでしょう。
岩﨑というやつは、生半可な商人ではないですね。・・・・・・


 はい。この対談を、はじめて読んだ際に印象に残った箇所が
ありました。せっかくですから、そちらも引用しておくことに。
それは対談の最初の方にありました。


司馬】 ・・・有名な話だけれど、勝海舟がはじめ
洋学の先生のところに行ったら、きみは江戸っ子だから
こういう馬鹿な暗記ものは無理だ、これは根気でやらなきゃ
しょうがない、田舎のやつがいいんだと言われる。
まあそう言わないで教えてくれと言うんですね。・・・
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方丈記私記

2020-07-06 | 本棚並べ
堀田善衛著「方丈記私記」を本棚からとりだす。
うん。東日本大震災のあとに読んで以来。

「私が以下に語ろうとしているのは、実を言えば、
われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の
鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。」

本のはじまりは、こうでした。
うん。あとは中頃と、最後とを引用してみます。
第四章のはじまりは

「3月10日の東京大空襲から、同月24日・・までの短い期間を、
私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。
・・とはいうものの、この方丈記なるもの、字数にして9000字あまり、
400字詰の原稿用紙に書き写してみても、せいぜい22枚強くらい
の短いものでしかない。だから私はほとんどこれを暗誦出来るほどに、
読みかえし読みかえしたわけであった。

・・・戦禍に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、
精神的、内面的な処し方についての考察に、何か
根源的に資してくれるものがここにある、またその
処し方を解き明すためのよすがとなるものがある、
と感じたからであった。また、現実の戦禍に遭ってみて、
ここに、方丈記に記述されてある、大風、火災、飢え、地震
などの災殃の描写が、実に、読む方としては凄然とさせられる
ほどの的確さをそなえていることに深くうたれたからでもあった。
・・・・・・・・」

うん。最後は、第十章から引用。源実朝の歌を引用している箇所。

「 
 世の中は鏡にうつる影にあれやあるにもあらず無きにもあらず

これは・・実朝の歌であるが、要するにどれもこれも、
何か巨大なものにぶつかっての、わけもわからぬ歌である。
わけはわからぬが、実朝、と言わなくても、とにかくこの歌の
作者が、どう処理もなんとも出来がたい巨大な不幸に
ぶつかっていることだけは、よくわかる歌である。

・・・・戦時中に、・・・私は・・・
何度も何度もこれらの歌を思い出して口の端にのせた
ことを告白しなければならないであろう。・・・・」

うん。私の引用はここまで。


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読まない本の夢。

2020-07-05 | 書評欄拝見
本を読めないからでしょうね。
本の紹介文を読むと、夢を見るような気がします
(じっさいに、本を読んでいる方には笑われるかな)。
というので、私は書評本を読むのが好きです(笑)。

何でこうして、はじめるかというと、
向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社1986年)を
本棚から取り出してきたから思うのでした。
向井敏さんのこの本には150冊の本が紹介されている。
それなのに、私はそのなかの、数冊しか読んでいない。
うん。これからも読まないのだろうなあ(笑)。
けれども、この本の紹介本は好きです。
ああ、世の中には、こんな本があるのだと教えてくれる。
うん。それが本の夢を見るような気になるよろこび。

はい。梅雨時は、なんとなく本棚が黴臭くなります。
こういうときは、楽しい話をつづけます(笑)。

「書評史上まれに見るすばらしい言葉」と向井さんが
指摘しておられる箇所があるのでした(p143)。

うん。短い文なので引用します。向井敏さんが
中野重治著「本とつきあう法」を取り上げた箇所です。
まずは、中野氏の言葉の引用からはじまっておりました。

「歩きまわったからといって遍歴したということにはなるまい。
四国西国とか、学問上・宗教上の問題とか、何かそこに目安が
なければ遍歴といえぬという気がするが、その気持ちからいうと、
わたしなどは読書遍歴はしなかった、いくらか歩きまわったことは
歩きまわったが、コースはなかった、札所もなかった、さらにいえば、
歩きまわるところまで行かなかった、まずはぶらついたという
ところだという気がする。」

はい。枕言葉のようにして、引用からはじまっているのですが、
2頁の短い文の、最後の箇所でした。

「・・集中の圧巻『旧刊案内』のなかに、芳賀矢一、杉谷代水の
共著になる『作文講話及文範』、『書簡文講話及文範』に触れた
章がある。文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本の
ために、中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、
書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。
その頌辞に親しく接するだけのためにも、
この本はひもとくに値する。いわく、

 ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、
 手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた
 通俗の本というものは何といいものだろう。        」

はい。これを読んだ私はといえば、
ネット古本屋に、出品されるのを待って
「作文講話及文範」上下巻と
「書翰文講話及文範」上下巻との
両方を揃えました。あとは、パラパラとひらいて、
いつかは、読もうと本棚へ並べたのでした(笑)。

ちなみに、
「作文講話及び文範」はその上巻だけですが、
講談社学術文庫(1993年)にはいっております。
あと、中野重治著「本とつきあう法」(ちくま文庫・1987年)。

うん。講談社学術文庫の「作文講話及び文範」をひらいて、
第一講話の前のページに引用された漢書を読む。

 智者千慮、必ず一失有り。
 愚者千慮、また一得有り。

文庫の最後には索引があって、その次のページに
こんな引用がありました。最後にそこを孫引き。

「汝(なんじ)文に堪能なりと思ふや、そを信ずるなかれ、
そを信ずること遅かれ。天の汝に命ずる所のものは、
語ることにあらず、書くことにあらず、唯々行ふことにあり。
                  カーライル   」
(p480)


はい。このついでになんですが、
GOOブログで毎日更新されているのを、
見させて、読ませていただいて、おかげで
楽しませてもらっております。
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竹中郁の京都。

2020-07-04 | 詩歌
淡交社の「古寺巡礼京都・20」(昭和52年)は金閣寺・銀閣寺。
その表紙に竹中郁の名前があります。
竹中郁の文は題して「少年の目・老年の目」。
その文は、「母につれられて、わたくしは幼少年時代に
神社や仏閣をたくさん回りあるいた。」とはじまります。

ちなみに、思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」の年譜には
「1904年(明治37年)神戸市兵庫区永沢町に生まれる」とあります。
本文にもどると
「60年という間隔をおいて、母につれていかれた季節と合致させて、
このたびの訪れを試みたらどうなるか。そう思って銀閣寺へは8月さなか、
金閣寺へは大寒のころというねらいで出かける・・・
大正はじめのころは、京都へは神戸からは泊りがけか、
まるまる一日を費やしてかしてでないと辺鄙な銀閣金閣へは
参詣できなかった。・・・・門前の賑わいなどという気配は
さらさらなかった。森閑としていた。」

竹中郁は1982年(昭和57年)満77歳で亡くなっております。
この掲載文「少年の目・老年の目」が昭和52年に出ておりますから、
昭和52年は、竹中郁73歳。それからさかのぼって60年前だとすると、
12~13歳のころか。夏冬二回にわけての出かけて文章にされている。
それも加味して、それに、ご自身を「子供」と語っていることから、どうも
大正1~2年で、小学校の低学年だったようなイメージがしてきます。

「母とつれだって訪れたと書いたが、そのときに子供として感じたことは、
山峡の寺のしずけさ一点ばりであった。・・・・
子供の感覚はあまり動かぬものらしい。蝉しぐれが耳を一ぱいにして、
町そだちのわたくしには、ただただ怖しいしずけさの淵に立ちすくんで
いたような覚えがある。庫裡の書院で絵ぶすまに近く坐らされて、
慣れぬ抹茶を供応された困惑も忘れられない。氷水かサイダーでも
呑みたい暑さの中で・・・子供は逃げ出したいくらいであった。

しかし、その茶の出る前から、しずけさのほかにわたくしを
とらえて離さぬものがあった。襖絵の出来ばえではなく、
その絵の中の墨の色であった。つねづねわたくしの生活圏の
中では見当らない墨の色の種々(いろいろ)な諧調をみつけ出して、
墨というものはこうして使うものなのかと考えこんでいた。・・・・・

おちついた象牙色の鳥の子紙の襖に軽やかにしみこんだ
濃淡の墨の諧調は、なにも初めて襖絵というものを
見たわけではないのに、つよく子供心にひびいた。
そこが寺院という場処の、しずかな昼であり、
白い砂の照り返しの光りのただよう天井の
高い座敷の一角でありしたからかもしれなかった。」


はい。年譜にもどります。
1916年(大正5年)12歳 3月、兵庫県立第二神戸中学校の
入学受験に失敗し、4月、兵庫高等小学校一年に入学。
1917年(大正6年)13歳 4月、兵庫県立第二神戸中学校に入学。
同級生に小磯良平がいて、生涯にわたる親交はじまる。

さてっと、私の好きな詩集に
「竹中郁少年詩集 子ども闘牛士」(理論社)があります。
その詩集の最後には、足立巻一氏の文がありました。
そのはじまりを引用。

「竹中郁先生は、1982年3月7日、77歳でなくなられました。
この詩集は、先生が日本の少年少女に贈り遺された、
ただ一冊の詩集です。
なくなられる10年ほど前、竹中先生はこの詩集の原稿を
作っていられました。これまでに書いた詩のなかで、
特に少年少女に読んでほしい作品ばかりを選び、
むつかしい文字やことばは子どもでもわかるように
書きなおしていられました。
ところが、いろいろなわけがかさなって出版がおくれ
ているうちに、先生は急になくなられました。・・・・・
先生を知る有志は、まず『竹中郁全詩集』を一周忌に出し、
つづいて三周忌に『竹中郁少年詩集』を刊行・・・・
三周忌の霊前に供えられることになったのです。・・・・・
絵はすべて竹中先生が描かれたものです。しかし、
詩集原稿には絵がついていなくて、こんど先生の
絵やカットを集めて組みあわせました。
先生は絵がお得意で、ハガキにはかならず絵を描いて
出されましたが、ことにお孫さんにはそんな絵はがきを
たくさん送っていられました。大部分はその絵はがきの
絵を借りたのです。」

はい。竹中郁少年詩集は、絵を見る楽しみもあります。
詩集を出してきたからは、ひとつ引用しなくちゃね(笑)。


   花は走る    竹中郁

 すみれが済んで 木瓜(ぼけ)が済んで
 山吹(やまぶき) チューリップ
 やがて胡蝶花(こちょうか) 夾竹桃(きょうちくとう)
 わが家の小庭のつつましい祭りつづき
 幼稚園友だちが誘いにきて
 孫が答えながら走りでてゆく
 そのにぎやかな声と足音

 去年今年(こぞことし)と年々
 わが右の高頬(たかほお)に太るしみ
 鏡に見入るその背後(うしろ)を
 花は 花は走る 
 花は走りぬける


おっと、忘れるところでした。
竹中郁が子どもの頃、銀閣寺で見た襖絵は?

「古寺巡礼京都 20」の図版解説にありました。
「当寺の方丈の襖絵は・・・・
室中の間は与謝蕪村筆の樹下人物図、
下関の間も同じく蕪村筆の棕櫚に鴉図、
向って右側の上関奥の間は、蕪村筆山水図、
その手前の間が、池大雅の琴棋書画図となっている。」
(p149)

はい。襖絵の写真も、この本のページのはじまりにありました。
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古本屋の老主人。

2020-07-02 | 本棚並べ
堀田善衛著「定家明月記私抄」(新潮社・1986年)をひらく。
はじまりはこうでした。

「国書刊行会本(明治44年刊)の『明月記』をはじめて手にしたのは、
まだ戦時中のことであった。」

こうして、知り合いの古本屋さんから手に入れます。

「ともあれ、戦時中のある時期にこの三巻本を手にして、
私はほとんど茫然としてしまったものであった。
漢文体であることは言うまでもなく、それもむずかしい
漢字ばかりが詰め込まれていて、返り点も何もなく、
読み下すだけでさえが難儀な、一種独特の文章が
上下二段に黒々と組み込まれているものを、ただ要するに
ためつすがめつ眺めて暮らすほどのことしか出来なかった。
私におどされて大変な苦労をしてさがし出して来た古本屋の
老主人に詫びを言いに行った記憶がある。結局、
そのときはろくに読めないままに机上に積んでおき、
その三巻本はやがて借り出して行った友人宅で
戦災に遭い、焼けてしまった。

そのあと、戦後になってもう一度この三巻本を別の本屋から
入手して、長い時間をかけて、本当にぼつぼつという感じで、
あるときは一年に一度もひらくことなしに、またときには、
その時々の自分の年齢と同じい時に、定家氏が何をしていたかを
見るためにひらいてみるというふうにして馴染んで来たものであった。」

こうして堀田氏の「定家明月記私抄」がはじまり、
そのつぎには、こんな箇所もありました。

「敢えてとりあげて言ってみると平凡なことになるものではあるが、
それはやはり、その何とも言い様がなくなるほどの、自身の日常
行動と宮廷の動静を記するについての克明さ、まめやかさ、
丹念さ加減である。如何なる情熱、執念がいったい、60年間にも
わたっての毎日毎日を彼にしるさしめたものであったかと、
つくづくと考え込まされることがある。・・・・・」(p13)


この藤原定家が晩年になって、百人一首を編んだ、
その人なのですが、わたしはここまで。
はい。今夜は月が出ております。
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東寺の御影堂の前で。

2020-07-01 | 京都
グレゴリ青山の「深ぼり京都さんぽ」(集英社インターナショナル)。
この漫画は、たのしくて、何度もひらきたくなります(笑)。

本のはじまりは、東寺からでした。
「今日は京女の友人田中貴子さんと
毎月21日に開かれる東寺の『弘法市』にやってきた」。
と東寺で待ち合わせて、はじまります。

「古寺巡礼京都①東寺」(淡交社・昭和51年)。
ここに、司馬遼太郎の文がありました。
題して、「歴史の充満する境域」。
写真は、浅野喜市。

司馬さんの文の最後には、こうありました。

「私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす
習慣をもっている。訪ねてくるひとに京都のどこかの寺を
そのときの思いつきのままに案内するのだが、
たいてい電話での約束のときに、
 ―――東寺の御影堂の前で待ちましょう。
ということにしている。
京の寺を歩くには、やはり平安京の最古の遺構である
この境内を出発点とするのがふさわしく、また
京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である
御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移って
ゆくのが、なんとなく京都への礼儀のような気がして、
そういうぐあいに自分をなじませてしまっている。
空海に対する私の中の何事かも、こういう
御影堂へのなじみと無縁でないかもしれない。(昭和51年9月)」

はい。この文はまた
「司馬遼太郎が考えたこと 8」の最後に掲載されておりました。
この文のなかで司馬さんは、こうも書いておりました。

「私は戦後、兵隊から帰ると新聞記者になり、
京都支局で宗教を満六年担当した。
当時、京都のたいていの社寺の神職や僧たちを
知っているつもりでいたが、ただ東寺の僧ばかりは知らない。

東寺の境内には何度足を運んだかわからないが、
一人の僧も知らず、また『空海の風景』を書くにあたっても
何度か足を運んだ。ゆくごとに堂搭を見たり、仏像を仰いだり
するばかりで、この伽藍に住む僧にはついに会っていない。
わがことながら説明もつかず、奇妙というほかない。

真言宗東寺の密教は、天台宗叡山の密教が台蜜と
いわれるのに対し、東蜜といわれた。台蜜と東蜜は、
平安期以後、天皇家の宗旨といってよく、宮廷で病人が出たり、
お産があったり、その他異例のことがおこるとかならず
この両派の僧が加持祈祷をした。最澄の法統はともかく、
さまざまな思想的展開をおこなったが、
東寺における空海の法統のひとびとというのは、
ただそれだけで千年ちかくも終始したかと思うと、
まことに複雑な可笑(おかし)味を感じたりする。

明治後は、
皇室は神道のみになり、密教から離れた。東寺はそれ以後、
精神の昂揚も沸騰も見ることなく、こんにちに至っている。
むろんそれがよくないというわけではない。
僧というのは伽藍を保全し、境内を清めているだけで十分に多忙で、
当人自身も精神がそれで充足するものだということを私は知っている。
妙に娑婆(しゃば)っぽいやり手の僧が出るよりも、
こういう僧伽のふんいきはわれわれ俗人にとって
はるかに清らかさを感じさせる。」(文庫本p461~462)

はい。まだまだ司馬さんの文はつづくのですが、
わたしはこれだけで満腹。

はい。じつは(笑)。この「古寺巡礼京都」第一期全20巻を
つい最近古本で購入しました。
20冊揃いで3000円+送料1200円=4200円。
つまり、一冊が210円。
はい。昭和51年の新刊定価は一冊2800円とあります。
大正3年京都市生まれの浅野喜市。その東寺の写真。
見れてよかった(笑)。




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