和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

それがどうしたというのだ。

2020-11-14 | 本棚並べ
渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)が
古本で400円。届いたのを見ると、新刊書店の文庫棚から
今とり出したようなきれいさ。カバーも帯もきれいでした。

カバーの折り返しには、著者の簡単な略歴。
1930年京都生まれとはじまっておりました。
この平凡社ライブラリーの最後には、
平川祐弘氏が4頁の解説を書いておりました。
その平川氏の文のはじめの方に

「著者は1930年生まれ、九州に住む在野の思想史家で、
本書も最初は1998年に福岡の当時は名書肆であった
葦書房から出版された。著者渡辺氏は学問世界の本道を
進んだ人ではないが、その歩き方には一歩一歩力がこもって、
どっしどっしという足音が読者の耳にも伝わるような大著である。」

この文庫には著者による
「平凡社ライブラリー版 あとがき」も6頁ほどありました。
すぐ寝てしまう寝床読書には、ちょうどよいページ数です(笑)。
このあとがきから、引用しておきます。

「・・・因縁はなつかしくもうとましい。
私は北京・大連という異国で育った人間である。
そういう私にとって、日本は桜咲く清らかな国であった。

大連にも桜は咲く。しかし桜より杏の方が多くて、その青みがかった
白い花は桜に先がけて開き、桜に似てはいるもののもっとはかなげで、
私の好みはこの方にあった。春の盛りにはライラックが咲き、
アカシアの花が匂う。夏はそれこそ群青というほかはない濃い青空。
秋が立つのは港から吹く風でわかった。冬はぶ厚い雪雲が垂れこめて、
世界は沈鬱なブラームスのように底光りする。中学の8級先輩の
清岡卓行さんだけでなく、大連は私にとっても故郷だった。

しかし、それはあくまで異郷であって因縁ではなかった。
私はやがて桜咲く『祖国』へ帰った。・・・・
私はずっと半ば異邦人としてこの国で過した気がする。
 ・・・・・・・・

私は湿っぽい自然がだめであった。
有名な神社仏閣を訪ねて、みんなが苔のみごとさに感心しているとき、
私はその苔の湿っぽさがいやなのだから話にならない。
渓谷を歩いていても・・・踏んでいる地面の落葉の積み重なった
湿っぽさがたまらない。野に霞がかかり谷に霧がわく、そんな
山水画ふうの幽邃(ゆうすい)さに深く惹きこまれることはあっても、
日本の山河はあまりにも寂しくて、こんなところで死んだらと
思うと背中が薄ら寒く感じられる。

だから私はこの本を書いたとき、この中で紹介した数々の
外国人に連れられて日本という異国を訪問したのかもしれない。
彼らから視られるというより、彼らの眼になって視る感覚に
支配されていたのだろうか。私はひとつの異文化としての
古き日本に、彼ら同様魅了されたのである。
その古き日本とは18世紀中葉に完成した江戸期の文明である。
  ・・・・・・・

渡辺が描き出すのびやかな江戸時代が一面にすぎず、
その反面に暗黒があったのは誰それの著書を見てもわかる
という批評を案の定見かけたけれど、それがどうしたというのだ。

ダークサイドのない社会などないとは、本書中でも強調したことだ。
いかなるダークサイドを抱えていようとも、江戸期文明ののびやかさ
は今日的な意味で刮目に値する。

問題はこういうしゃらくさい『批評』をせずにはおれぬ心理がどこから
生ずるかとうことで、それこそ日本知識人論の1テーマであるだろう。
   ・・・・・・・

少年の頃、私は江戸時代に生まれなくてよかったと本気で思っていた。
だが今では、江戸時代に生れて長唄の師匠の二階に転がりこんだり、
あるいは村里の寺子屋の先生をしたりして一生を過した方が、自分は
人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。
・・・・・
       2005年7月    著者識      」

うん。この平凡社ライブラリー版あとがきの時は、
そうすると、渡辺京二氏は75歳くらいでしょうか。

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気象庁の課長さん。

2020-11-13 | 本棚並べ
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に
6ページの短文で「本の話」とあります。
はじまりは

「もう古い話で、江戸時代かなんぞのように思うが、
私が30代だった昭和31、2年のころである。
私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。
・・その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。
・・・一度だけ・・・たまたま自分の案が通って、
東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。」

こうして、新聞の連載小説をたのみにゆくのでした。

「・・・もっとも、ことわられた。
相手は、藤原寛人(ひろと)という名の気象庁の課長さんで
・・新田次郎さん(1912~80)のことである。
私より11歳上で昭和初期学校を出、早くに富士山頂の測候にも
従事し、山岳気象の第一人者であることも、私は知っていた。

また、戦時下に満州国気象台に勤務し、敗北とともに抑留され、
その間、夫人の藤原ていさんが、凄惨な引揚げ体験をされたことも、
ていさんご自身の体験記である『流れる星は生きている』で存じ
あげていた。

新田さんご自身は、私が訪ねてゆく前年、白馬山頂に50貫もの
花崗岩の風景指示盤を運ぶ強力を主人公にした『強力伝』という
作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力
をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の
小説家の歴史における異変だと思っていた。

   ・・・・・・・・・・
余計な話はなかった。なぜ自分はひきうけられないかという理由を
必要にして十分に話された。・・・・・
体系美を感じさせるような断わり方で、私はむろんひきさがり・・・
その後、20余年、お会いする機会もないまま、亡くなられた。その間、
私は読者でありつづけたから、べつにお会いする必要もなかった。」

このあとに、新田氏の「赤ちゃん」の逸話を聞いた話を披露
しているのですが、引用すると長くなるので、カットして

「去年のことである。
枕頭で本を読んでいるうちに、飛びあがるほどおどろいた。
・・・上質の文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ること
をわすれるうちに、この本(「遥かなるケンブリッジ」)の著書の
藤原正彦氏が、あの赤ちゃんではないか、とふとおもったのである。
あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏の息である
ことがわかった。巻末の略歴に、1943年のおうまれとある。

・・・・新京時代の藤原家の赤ちゃんの著作を、
70を越えた私が夜陰夢中になって読んでいたことになる。
この偶会のよろこびは、世にながくいることの余禄の一つである。
同時に、本のありがたさの一つでもある。・・・・」

(「本の話」1995年7月号)
ちなみに、題名には副題もあって
「本の話・・・新田次郎氏のことども」とあり、
この文の真ん中辺にも
「さて、この雑誌は、図書についてのサーヴィス雑誌だと
聞いている。私は、本ほどありがたく結構なものはない、
ということを大いに書こうとしていて、つい新田さんの
ことを思いだし、話がこんなふうになってしまった。」とあり、

本文の最後の一行はというと
「数奇というのは、読書以外にありうるかどうか。」
と締めくくられておりました。

はい。寒くなりましたが、いつのまにか読書の秋。

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200円読書。

2020-11-13 | 本棚並べ
古本で「藤原正彦の人生案内」(中央公論新社・2006年)の
単行本が200円なので、ついでのように買う。

3ページの「まえがき」を読む。これだけで私は満足。
ということは、3頁ほどの200円読書。
うん。たのしかったので引用することに。
はじまりは

「ひとの人生相談にのる、というのは私ごとき一介の数学者の
得意とする所ではない。数学を志す者の多くは、もともと人間より
数の方が好きという傾向が強い・・・・・・

そんな私に読売新聞が『人生案内』の担当を依頼してきた時に
びっくりした。そしてなぜか笑った。
依頼のあったことを女房に告げると、女房は『えっ』と言い
しばらく絶句してから・・・なぜか笑った。・・・・・

それを引き受けることになったのは女房の

『あなたは非常識、というか無常識だから、
これを機会に他人様の悩み事に耳を傾けて、
少しは世間常識というものを勉強してもいいかも知れないわね』

という言葉だった。・・・・・・

始まってみると、意外なことに私の回答は評判がよかった。
ほとんどの相談者が、常識とか固定観念とか風潮にしばられて
悩んでいて、それを指摘するのに私の常識が役立ったのかも知れない。

例えば、若い人の相談に、性格が暗いため友達がいないという
ような悩みが多数あった。『明るく快活で友達の多い子がよい子』
という常識のせいである。・・・・
世界にはいろいろの花があるから楽しいので、チューリップ一色では
つまらないと私は言ってやる。この世が明るく快活な子ばかりでは
気味悪いし疲れてしまう、と思うからだ。

また『自立した女』が理想ともてはやされる現代の風潮だから、
専業主婦やその予備軍は肩身の狭い思いをしたり悩んだりしてしまう。
私は、子育てというのは最大の社会貢献と断じたりする。
 ・・・・・・・・

私を悩ましたのは・・・・女房が
『どうしようもない夫について藤原正彦先生に御相談したいわ、
人生案内に手紙を出そうかしら』と事あるごとに言っていたことである。
・・・」

うん。私の200円読書はここまで(笑)。
ちなみに、新刊定価は1200円+税。
新刊なら、買わないけれど、古本なら手がでる。

はい。これで満腹感。
ボーッとしていたら、
そういえば、司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」に
その当人の藤原正彦氏が登場するエッセイがありました。
うん。長くなるので、そちらは、ブログをあらためることに。


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「少し元気になりました」

2020-11-12 | 本棚並べ
寝ながら、座談集「時代の風音」(UPU・1992年)を
パラパラとひらいているのですが、
この堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿の鼎談は、
あれやこれやと、内容が飛びかい、私にはとても紹介は無理。
こういうときは、はじまりとか、あとがきを引用することに。

ということで、はじまり。宮崎駿さんが口火を
切っておりました。

宮崎】 じつは、お二人にお話をしていただきたいと、
私はずっと長いあいだ熱烈に願っていたのです。
ひとつには、私は若いときから堀田さんの作品を読んで、
・・・・影響をうけてきたつもりです・・・・

同時に、司馬さんの本を読んでいまして、とくに
『明治という国家』やNHKテレビの『太郎の国の物語』は
ビデオで何度も見てひじょうに感動しました。・・・・・

お二人にちがいというのは、カソリックとプロテスタントの
ちがいかな、と勝手に思ったりしてるのです・・・・

・・・ついでにおしゃべりしてしまいますと、
私は子供を相手に商売しているものですから、
子供たちの状況というのが気になるわけです。
 ・・・・・
要するにリップサービスで愛だとか友情だとか
というのではなくて、本音を語らないと
子供たちはまったく受けつけません。(~p11)


はい。真ん中をとばして、
宮崎さんの「あとがき」から引用。

「・・・この時代とこの日本について、
おふたりにお話いただきたいと夢見ていました。
 ・・・・・・・・
 ・・・・・・・・
堀田さんは、牛車に折りたたみ式の方丈を乗せて、
京をすてて山へ入っていく鴨長明のようでした。

司馬さんは、天山北麓のみどりの斜面の、
馬にまたがった白髪の胡人のようでした。

私はとり残された裏店の絵草子屋のようでした。

私事で申訳ありませんが、
死んだ母のことを思い出していました。
『人間はしかたのないものだ』というのが彼女の口癖で、
若い私と何度も激しくやりとりしたのです。

戦後の文化人の変節について彼女が語るとき、
不信のトゲは何かいたたまれないものがありました。

茫然としながらも、おふたりの言葉は
私の気を軽くしてくれました。

澄んだニヒリズムというと、誤解をまねくでしょうか。
安っぽいそれは人を腐らせ、
リアリズムに裏づけられたそれは、
人間を否定することとはちがうようです。

もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る
目差しが欲しいとつくづく思います。

二度にわたる鼎談のおかげで、私は少し元気になりました。
頭の眠っていた回路に、電流がながれたような気分です。
・・・・・・」(~p272)

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気象庁の呼びかけ。

2020-11-11 | テレビ
たまたま、月刊雑誌Voice12月号の巻末コラムを
読んで感銘しました。

その感銘を、さて、どうブログに書きましょう。
まず、こういうのはどうでしょう。

坪内祐三著「考える人」(新潮社・2006年)の
なかで、坪内氏は考える人の1人に、深代惇郎を
とりあげておりました。そのなかで、

「今の中学・高校の国語(現代国語)の授業方針は
どうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、
高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を
読むことが奨励されていました。・・・・・・」

このあとで、坪内氏は
「それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」(p125)
として、深代惇郎氏が書いていたコラム『天声人語』を
注目してとりあげていたのでした。

うん。ここに『・・・を読むことが奨励されていました』
とあります。今、奨励したくなるようなコラムを読んだ
ことがありますか?

はい。わたしならば、月刊雑誌Voice12月号の巻末コラムを
おすすめしたい。そこは、渡辺利夫氏が書いておられました。

うん。1ページの短いコラムですから、
全文読んでいただきたいのはやまやまですが、
ここでは、『気象庁が呼びかけている』場面だけを
とりあげて、他の箇所はカットしてみます。

「関東南部を襲った台風に『大型特別警報』の出た頃だった。

『周囲の状況を確認し、避難場所までの移動が危険な場合には
近くの頑丈な建物に移動したり、外に出るのがすでに危険な場合は
建物の二階以上で崖や斜面と反対側の部屋に移動するなど、
少しでも命が助かる可能性が高い行動をとるよう』
気象庁が呼びかけているという、

実にリアルなNHKのニュースである。
実はこの引用、いまウェブを開いているのだが、
10月10日の20時28分の『大型特別警報』についての
ニュースの最後である。三、四分はつづいたであろうか。
そこにいたるまでさまざまな映像を背景に、大変だ大変だ、
を繰り返して最後にこういうのである。

重大な情報だというのであれば、まずはこの引用文の
警報から入って、そのあとで理由についてあれやこれや
を述べればいいと思う。」

はい。その頃に、テレビを見ていて、緊迫感のうちに
的確な気象庁の呼びかけに、うなづいておりました。
それなのに、すっかり忘れておりました。
今回このコラムで、あらためて活字で
気象庁の呼びかけを、反芻することができてよかった。

うん。ここだけじゃ、コラムとして物足りませんか?
もう少し、渡辺利夫氏のコラムから引用しておくことします。

「ニュースをみていると、例えば日本学術会議問題では、
『きちんとした説明が求められている』がやけに多い。
『更なる追及』とあったり、『より一層の究明』であったり、
私はまず使いそうにない。いろいろ述べて、最後に
『いずれにせよ』といって結論らしきことを語る、
というのもなんだか説得力がない。」

はい。12月号の巻末コラムは、題して「報道の日本語」。



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手紙の必要・不必要。

2020-11-10 | 本棚並べ
東日本大震災は、2011(平成23)年3月11日でした。
その時に、私が読んだ古典といえば、
吉村昭の「三陸海岸大津波」と「関東大震災」は、
いずれも、文春文庫で読みました。さらに
「方丈記」と、堀田善衛著「方丈記私記」を読む。

そういえば、と、その頃買った文庫を本棚から取りだしてくる。

寺田寅彦著「天災と国防」(講談社文庫・2011年6月9日発行)
この文庫解説は畑村洋太郎。

清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫・2011年6月10日発行)
ちなみに、「りゅうげんひご」と読みます。

寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫)
寺田寅彦著「地震雑感/津浪と人間」(中公文庫)
この2冊は、2011年7月25日発行で同じ日付でした。

あと本棚にあったのは、というと、
浅見和彦校訂・訳「方丈記」(ちくま学芸文庫・2011年11月10日)
この浅見氏の文庫は最後に「本書は『ちくま学芸文庫』のために
新たに書き下ろされたものである」とありました。

また同じ頃の堀田善衛著「方丈記私記」(ちくま文庫)では
「2011年11月20日第13刷発行」とありました。

はい。東日本大震災を思うにつけ、そのころには、
関連新刊本が出て、雑誌が特集を組まれているなかに、

震災の古典としての文庫が、このように
出ておりました。歴史を紐解こうとするには、
身近で、その手がかりを得ることができました。
ということで、今日は起きてから、とりあえず、
本棚から文庫の発行日を確認たというわけです。

ちなみに、昨日の寝床わきの本は鼎談本で、
『時代の風音』(UPU・1992年)。
堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿の3人による座談です。

堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社)には、堀田氏が
戦争中に『批評』という雑誌の同人になった。その話がでてきます。

「その『批評』に書いたのが『西行論』で、あのころから
日本中世に関心があったんでしょうね。

この間、司馬遼太郎さんと対談したときに、
彼が『おれは、まるで戦時中のおれへの手紙を書いて
いるようなものだ』といってましたが、
私もまったく同じで、後年の『方丈記私記』(1971年)とか、
『定家明月記私抄』(1986年)などは、結局、戦時中に
背負い込んだものを戦後になって作品化したものなんです。
・・・・」(p18)

はい。ここにあった司馬さんとの対談というのが
UPUの「時代の風音」の対談だと、目星をつけて、
寝床でパラパラとひらいたのでした。その箇所は
線をひいてあったので、すぐにわかりました。

  今回、そのすこし前が、印象に残り、
  その箇所を引用してみることに


宮崎】 司馬さんの8月15日は?

司馬】 私はその年の早春に、所属していた戦車連隊ぐるみで
満州から帰ってきて、敵の本土上陸にそなえるために関東地方に
いました。・・・・

出撃していくときは関東の老若男女ともども全滅の日ですから、
8月15日にはほっとしましたよ。これがまず第一に思ったことです。
泰淳さんと違って、日本人は亡びないと思ったし、むしろいい時代が
くると思た。

戦車隊は飛行機と同じで、構成員のほとんどが下士官なので、
私は中隊の下士官が動揺しないように何かしゃべっておけと言われて、
軍が解散するとき、学校の教室で話をしました。

下士官というのは職業軍人で、私よりも賢くて、職業知識は豊富で、
何事もやれる人々でしょう。年齢も上です。
だけれども、そのときは勇を鼓して、こう言いました。

『いままで祖国、祖国と言いすぎた。
 あなたたちは国に帰って、
 女房をもらって子供を生んで、
 天寿を全うすることだけを考えよ』 ・・・」(p179)


  うん。ここまでで私は満腹です。
  けれど、次も引用しておきます。
  堀田氏の指摘したその箇所です。


司馬】  二つめに思ったのは、
なんでこんなばかな国に生まれたんだろう、ということでした。
指導者がおろかだというのは、22歳でもわかっていました。
しかし、昔の日本は違ったろうと思ったんです。
その昔が戦国時代なのか、室町時代か、明治なのか知りませんが、
昔は違ったろうと。しかし22歳のときだから、日本とは何かなんぞ
わからない。物を買いはじめてからは、すこしずつわかってきたこと
どもを、22歳の自分に対して手紙を出しつづけてきたようなものです。

堀田】 それは司馬さん、私なんかも完全に同じですよ。
これまでやってきた仕事は、ずっと戦時中の自分への手紙を
書いていたようなものですよ。私の『ゴヤ』も、『方丈記私記』も
『定家明月記私抄』も戦時中に考えたテーマなんですね。
・・・・・・

司馬】 いまの人は手紙を書く必要がないから、
そのぶんだけ前へ進むでしょう。だから、
ひじょうに幸いだと思うんですね。    」(p180)


  はい。つぎに宮崎駿氏が語っております。
  最後に、そちらも引用しておくことに。


宮崎】 私は敗戦後、学校とNHKのラジオで、
日本は四等国でじつにおろかな国だったという
話ばかり聞きました。
 ・・・・・・・・・・・
ですから、日本の景色を見ても、水田を見ても、
咲き乱れる菜の花畑を見ても、みんな嫌な風景に見えました。
嫌いだったんです。それを回復するためにえらい時間がかかりました。

堀田】 それはやっぱり手紙が必要だったんだな。

宮崎】 『アルプスの少女ハイジ』というテレビシリーズを
作るために、スイスに行って帰ってきましたら、
日本の景色のほうが自分が好きだったことに気づいたんですね。
ずいぶんまわり道をせざるをえませんでした。  」(p181)





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方丈記展カタログ。

2020-11-09 | 本棚並べ
簡単にネットで古本が手にはいるようになって、
本を読んでいる中で、本の紹介があったりすると、
読むのは中断して、ネット検索し古本を探します。
安ければ、すぐ注文。それが習慣化しております。

そんな気楽さのためか、注文して時間がたつと、
何でこの本を注文したのか、忘れていることもある。
けれども、本のつながりが分かりやすく、明快だと、
本を辿る楽しみがふえます。

閑話休題。
最近、特別展示のカタログを古本で買いました。

「鴨長明とその時代 方丈記800年記念」
国文学研究資料館創立40周年特別展示とあります。
「ごあいさつ」は今西祐一郎氏。そのなかに

「昨年の東日本大震災は、元暦2年(1185)の大地震のありさまを
つぶさに記した貴重な震災文学としての『方丈記』を再確認させる
ことになりました。・・・」
とあります。
カタログの会期は2012年5月~6月とありました。
すこし、解説(浅田徹)を引用。

「教科書などで『方丈記』の図版として常に掲げられているのは
大福光寺本(現在京都国立博物館寄託)であるが、それは
カタカナ漢字交じりの表記になっている。大福光寺本が長明自筆で
あるかどうかは、この表記スタイルが彼自身の選択したものであったか
どうかを考える上でも決定的な意味を持つが、いまだに結論が出ていない。
ただし、『方丈記』の諸伝本を見ると、圧倒的にひらがな漢字交じりの
ものが多い。さらに、略本の一種である武庫川女子大学図書館蔵真字本は、
漢字ばかりで書かれている。」

はい。災害では、現代でもしばしば漢字で迷わされます。
「避難勧告」「避難指示」「避難準備」それに「避難命令」。う~ん。
この漢字を順番に並べよと質問されても私は判断に迷います(笑)。
さらに、カタログの解説を続けます。

「長明の生きた平安末期から鎌倉初期は、
日本語の表記が成熟していく重要な時期だ。

やまとことばをほとんどひらがなばかりで書いていく
王朝仮名書道の流儀は、平安後期になると、
漢字が取り込めないことの限界が来ようとしていた。

一方、漢字主体で、送り仮名をカタカナで小書きするスタイルは、特に
寺院周辺で広く使われていたが、複雑な思想的概念を展開することには
向いていたものの、流麗な日本語表現に即応できる様式ではなかった。
だが、次第に二つの流れは融合しようとしていたのである。・・・
  ・・・・・・

カタカナまたはひらがな主体で、任意に漢字表記の漢語を交えて
行ける『方丈記』のスタイルは、日本人が中国渡来の思想的概念を、
彫琢された日本語の文章の中に馴致することについて成功した、
時代の記念碑の一つなのである。」(p18~19)

このカタログ本の後半には夏目漱石の英訳本のページもあります。

「漱石は・・英文科2年生だった明治24年(1891)12月に、
『方丈記』を英訳している。英語の成績が秀抜だったため、
英語教師J・M ・ディクソンから依頼されたのだという。
残念ながら、この時の自筆原稿は所在不明である。・・・」
(p69)

この数頁あとに、堀田善衛「方丈記私記」自筆原稿の
一枚目が載っておりました。
「・・・自筆原稿は、各社の担当編集者が美しく製本してから
堀田に返却しており、本作もその習慣に従って一冊に製本されている。
前見返しには『方丈記私記 1970年7月より71年4月、「展望」誌に予が
快心の作の一たりき 善(朱印)』という自筆の一文が添えられている。」
(p71)


はい。ここまで引用してきたら、
堀田善衛著「方丈記私記」のはじまりの箇所を
引用しておきます。
鴨長明の「方丈記」のはじまりは
みなさんよくご存知でしょう。
それでは「方丈記私記」のはじまり

「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、
われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、
また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

1945年、いわゆる昭和で数えて20年の3月9日夜、
私は友人の、詩人であるK君の疎開先に厄介になっていた。
疎開先と言っても・・・東京は目黒区の洗足であった。
・・・・・・・
彼の厳父が運送業を営んでおられ、K君自身もまた
その業の手伝いをしているものであった。・・・・・

あの惨澹たる戦時を、私たちが、文学的にはきわめて
実り多いものとして過ごすことが出来たのは、一つには、
汐留貨物駅の近くに、そこへ集って来る青年たちを
こまやかな理解と心づかいをもって遇して下さった父母をもった、
K君のこの汐留サロンがあったからであった。
 ・・・・・
K君のこの運送屋は、その仕事の性質上、店をたたんで
東京を逃げ出してしまうことが出来ず、従って、
危険は承知の上でそこにとどまらざるをえず、そこで、
K君の厳父が、家族のためにせめて、ということで
東京は都内の洗足池の近くに一軒の家を借り、
そこを疎開の地としたものであった。
またK君一家は、根っからの東京っ子であり、
地方にはこれと言って疎開のために あてになるところも、
つてもなかったもののようであった。

そうして1945年3月と言えば、
すでに右にあげた友人たちも召集されているか、
それこそ疎開をしているかのどちらかであって、
サロンはすでに、とうのむかしに解体をしてしまっていた。
・・・・・・」

そういえば、鴨長明の方丈記は、たしか、
後半に、方丈の家が出て来ておりました。



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仕舞と朗誦。

2020-11-09 | 本棚並べ
堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社・1993年)。
ちなみに、堀田善衛(1918(大正7)年~1998(平成10)年)。
ですから、この本は晩年の一冊ということになります。
本はまず、「何から話しましょう」と、はじまります。

「私の家は、富山県の伏木(ふしき)港(現高岡市)で
徳川時代から代々廻船問屋をやっていました。
いわゆる北前船というもので、北海道から昆布や鰊を積んで
大阪に入る。それから、大阪から帰り船で塩、米、酒、瀬戸物などを
仕入れて北海道にもっていく。・・・・

私が生まれた1918(大正7)年には、米騒動が起って、
そのときには風呂釜でおかゆを炊いてそれを配って凌いだと
いうことも聞いています。・・・

私も幼年時代、自家の船で親父につれられてウラジオストックへ
行ったことがあり、やけに坂の多い、煙突ばかりある家が並んで
いたという記憶が、網膜の裏にかすかに残っています。・・・」
(p7~8)

「生家が廻船問屋でしたから、家にはしょっちゅういろいろな人が
出入りしていました。俳人、画家、能役者といった人たちが
入れ替わり立ち替わり来ていたものだから、おのずとそういう芸能に
も目を開かれ、琴や三味線を習ったりしていたわけです。
仕舞もさせられました。

また、書画・骨董などもずいぶんありましたから、
東京へやってきたときには、まわりのものがみんな薄っぺらく
感じられて仕方なかった。・・・・
唯一いいと思ったのは、シンフォニー演奏だけ・・・」
(p11~12)

ここに、『仕舞』というのが出てきておりました。

堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)に
「ひさかたの・・・」と題する7ページの文があり、
そこにも、「仕舞」という言葉がありました。

「私は幼時を北国の廻船問屋で過したのであったが、
家の庭には大きな池があり・・・・この池の向う岸に
桜の巨木があって、満開の時には空一面が桜花で蔽われ、
池水にその花が映り・・・・・・・・

廻船問屋であったから、一族郎党には船頭や水夫など百人ちかい
人数がいて、それらの人々が春の花の宴を池畔で催していて、
まだ若かった私の母が、この歌、

   ひさかたの 光のどけき 春の日に
         しづ心なく 花の散るらむ

を朗誦しながら、色鮮やかな扇を手にして仕舞のような
舞を静かに舞っていたものであった。
従って幼時から私にとって古今集とは、この一首の歌に
収歛されていたのであった。」(p95~96)

このあとに、書画の展覧会で「ひさかたの・・」の書画を
「幼時から身に添ったものであったから」ということで買わずに、
別の書画を買ったあとに、堀田氏は気づいたとあります。
「私はわれながら愕然としたのであった。
本当は『ひさかたの・・・』の方が欲しかったのであった」。

あとには、外国での宴で、詩人たちが朗々と自国の詩を朗誦し、
堀田氏にも、その順番がまわってきた時のことを語っておりました。

「私にも、と求められたのであった。そこで私は、
怖めず臆せず、この、『ひさかたの・・』を母の流儀で朗誦した。」
(p98)

そののちも何回か、外国での朗誦の機会があったことを、
「ひさかたの・・」とともに印象深く述べられておりました。

うん。『母の流儀で朗誦した』というからには、
簡単な仕舞もしたのでしょうか。どうなんだろう(笑)。





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鐘が鳴る。歴史が鳴る。

2020-11-08 | 本棚並べ
はい。昨日、寝床でひらいたのは、
堀田善衛著「めぐりあいし人びと」(集英社・1993年)。

うん。朝起きて、あと2冊を本棚からとりだす。
「ベニシアの京都里山日記」(世界文化社・2009年)。
北條秀司著「京・四季の旅情」(淡交社・1981年)。

あとは、鐘の音ということで順番に引用。
最初は、堀田善衛氏の本の最後の方でした。
スペインについて前置きしたあとに、

「たとえば、今やもう東京に限らず、日本のほとんどの都市では、
鐘の音が聞こえるようなところはありません。それに対して
ヨーロッパでは、現在でも教会の鐘の音が日常生活を仕切っています。
・・・・ヨーロッパでは、鐘というのは重要な意味をもっています。
日本でも、私が子供のころにはまだ、夕方、お寺の鐘が鳴ったら
帰ろうかという童謡もあるように、鐘の音と日常生活が密接に
結びついていました。

そうしたお寺や神社というのは、宗教であると同時に歴史ですから、
鐘が鳴るということは同時に歴史が鳴っているといえます・・・」

ちなみに、堀田氏は1918年(大正7年)生まれ。
ここから、堀田氏は「歴史意識の形成」へと飛びますが、
私にはここでは収まりきれないので、引用はここまでにして
2冊目へといきます。

ベニシアさんの曽祖父カーゾン卿がはじめて訪れた京都の
文を引用しておりました。

「『この街は豊かな緑に包まれており、その趣のある優雅な姿が
山間に浮かんでいます。夜明けに街全体が白い霧に包まれた時は、
寺院の重厚な黒い屋根が、まるで転覆した巨大な船が海から
浮かび上がってくるかのように見えます。すると、もやの向うから
寺院の鐘が鳴り、哀愁のある空気が徐々に広がってきました。
・・・・』このようにカーゾン卿が本の中で書き残したことは、
私が・・1971年に初めて京都に到着した日に、目にし、感じたこと
と同じでした。・・・」(p20~21)

つぎは、その京都の除夜の鐘。
北條秀司氏の「除夜の鐘」と題する文です。
1902年大阪市北堀江生まれ。で東京に住まわれていたようです。

「・・・京都の除夜の鐘もずいぶんと聴いた。
終戦直後嵐山の定宿で、おかみさんと二人、天龍寺の鐘の音を
たのしみながら、物資欠乏の空腹を紛らしたことも、つい昨日の
ことのように思われるのに、いつか30年の歳月が経っていることになる。
往時茫々、そんな言葉が胸に湧くのも大年の夜のたのしさであろう。

天龍寺の鐘の合間には川向うの法輪寺や大悲閣の鐘も聞こえていた。
京都はお寺が多いので、一つの寺の除夜だけを聴けることはわりとすくない。
妙心寺の除夜を聴いている耳には仁和寺の鐘がダブッて聞こえる。
高台寺の除夜には清水寺がダブる。相国寺には大徳寺がダブる。」

はい。3冊目の最後。三題噺だと、これでおわるので
もうすこし引用を重ねます。

「その複数のおもしろさも京都の大つごもりのたのしさである。

去年も複数の除夜を聴いた。法然院の鐘を間近く聴いてやろうと
思って、鹿ヶ谷と対面の吉田山に登った。そして、宗忠神社の境内の、
霜の降りた石に腰を下ろして、まっ暗な中で静かに刻を待った。
除夜の鐘は鳴り出すのを待っている緊張感が魅力的だ。
シーンと耳底を澄ましている中へ、第一杵がゴーンと聞こえてくる。
あの第一音がこころよい。心が澄みわたる。

計画どおり法然院の鐘が手に取るような近さに聞こえ出した。
その横からもう一つの鐘がはいり込んできた。真如堂の鐘だ。
いや、もう一つ遠くから大きな鐘が聞こえてくる。南禅寺らしい。
夜気が凍っているからそのほかの小さな鐘も聞こえている。
まるで除夜の鐘交響曲だ。
こんなうつくしい音楽芸術が世界にあるか。・・・」(p230~231)

こんな除夜の鐘交響曲は聴けませんが、
堀田善衛氏の晩年のエッセイをひらいていると、
鐘が鳴るようにして、歴史が聴こえてくるようです。
ということで、これからしばらくの寝床の本が決まりました。


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本を読む場所の変化。

2020-11-07 | 本棚並べ
大庭みな子著「雲を追い」(小学館・2001年)を
私は寝るまえに寝床で、何日か読んでおりました。
本文は、途中から「脳梗塞と脳出血で半身不随となり
病院で身動きできない状態」(p49)のなかで、
口述筆記をしたりしながら、一冊になったものでした。

恐縮なのですが、健康体の私でも、寝ながら読んでいると、
この1冊が、よく頭にはいってくるような気がしたのでした。
そこで、体勢と読書とへと話題が飛びます(笑)。

津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に
本を読む姿を書いている箇所がありました。

「60代までは硬軟を問わず、本はベッドや電車、もしくは
歩きながら路上で読むのがふつうだった。・・・
そちらの読み方のほうがふつうだったのだから、本はおおむね
自室で机にむかって読むという正しい読書習慣は、私の身には
ついていなかったことになる。
読む量でいえば、ベッド3割、電車2割、路上1・5割、
仕事場の机1割、その他(喫茶店や風呂やトイレなど)2・5割
といった感じだったろうか。
ところが退職してしばらくたつと、そんな私が、意外にも、
じぶんの部屋できちんと椅子に坐って本を読むようになっていた。
それまでの路上読書にかわって、私の生活に、いつのまにか、
卓上読書という新しい習慣が根づきはじめたのである。

私にとってこれがどれほど大きなできごとだったかは、
変化に気づいた日、びっくりして手帖に走り書きした
メモからもわかる。それによると、2009年10月9日、
前夜の台風のなごりで強い風が吹く、よく晴れた日の午前、
ちょっとした必要があって私は吉田健一のエッセイ集を読んだらしい。

  吉田健一の文が読めた
  ・・・・大変化だ。
  机で読んだせいか。

・・・なぜそれほどびっくりしたのだろう。
ことわるまでもない。それ以前の私には、
かれの文章がうまく読めなかったのだ。
いまでもよくおぼえている。・・・・」(p40~41)

うん。せっかく津野海太郎氏の本をひらいたので、
この箇所も引用しておきます。
それは朱熹(朱子)の聞き書き集『朱子語類』を
図書館で読んだ津野さんの感想でした。

「おおくの弟子たちのメモによって再現した
先生のおことばが245編―――。

読書も食欲にまかせて『雑多なものを、時節もわきまえず、
一気に食べれば、腹が突っ張って、どうしようもなくなる』とか、
『いまの人の読書は、まだそこまで読んでもいないのに、心は
すでに先に行っている(略)。気分がせかせかして、いつも
追い立てられているようだぞ』とか、
どのおしえも身につまされ、どことなくユーモラスで、
キビキビと気合がはいっている。
とうてい800年もまえのものとは思えないくらい。」
(p67)

うん。この本のなかで「目下の私の読書の場」を
書いてありました。

「机7割、ベッド1割、電車0・5割、路上ゼロ、
その他1・5割といったところ。・・・」(p46)

ちなみに、
津野海太郎(つの・かいたろう)氏は1938年福岡県生まれ。

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後期高齢者という。

2020-11-06 | 本棚並べ
曽野綾子さんは1931年生まれ。
うん。お元気そう。

人生の先達から、いろいろ教わります。
曽野綾子著「不幸は人生の財産」(小学館・2013年)は、
週刊誌の連載を再構成したもの。
そこから引用。

「後期高齢者という『分別』の仕方が気に食わないと文句を言う人がいたが、
その後の成り行きはどうなったのか私はよく知らない。
改めて言うが、私は75歳の線引きに大賛成である。
その年になってみれば急に同級生が、死なないまでも、
どんどん病気になっていくのがよくわかる。」
(p124・掲載は2010年9月3日号・隔週連載の「昼寝するお化け」)

現在はというと、米国大統領選挙のニュースでもちきりですが、
その情報格差のはなはだしさ、が明らかになりつつあります。
ネット配信の今日の「虎の門ニュース」が、
お昼に再生しようと思ったら、
再生されない事態になっておりました。

もどって、
曽野綾子さんのこの本に『どこの国も内部はガタガタ』
と題する文がありました。

「・・・テレビを始終見ているわけにいかないし、
テレビやインターネットでは
『紙に印刷された文字から思考するという上等の間』
がもてない。

新聞には時々、すばらしい写真が載る。・・・・私は好きなのだが、
写真なら信用していいというわけでもない。
昔、朝日新聞が、戦争中の日本軍の毒ガス作戦だという証拠写真を載せた
ことがあった。平原の中に毒ガスの煙が上がっているような光景であった。

私の夫はそれを一目見るなり、『これはガセネタ』と笑っていた。
夫は・・・終戦間際に今度は召集されて二等兵になった。そんな最下位の
兵隊だった夫が、どうしてその写真がガセネタだとわかったかというと、
毒ガスは重いガスなので、地表に溜まる。当然のことだ。
もし毒ガスが空気より軽かったら、あっという間に、
人間の背丈より高いところに上ってしまって・・・
人間を殺す目的を達せられない。
だから毒ガスは、普通谷で使う。・・・
風も吹き通り易い平野部で毒ガスを使うなどということは、
まかり間違ってもありえない。
という軍事的な常識が、新聞社には欠けていたのである。

この写真はやはりあちこちから疑問が出て、まもなく
資料としては全く正しいものではなかったという結論が出た。」

うん。このあとの短文の真ん中を、思いきりカットして
この文の最後を引用。


「アフガニスタンでは9月18日下院選挙が行われた。
選挙管理委員長は、『選挙は成功裏に終わり、反政府勢力に勝利した』
と宣言したが、誰もそれを信じない。
約1千カ所以上の投票所が治安上の理由で閉鎖され、
殺害やロケット弾による死者も出た。・・・・・

どこの国も、大きな問題を抱えている。
日本はむしろ順調に暮らしている国だということを
忘れない方がいい。」
(2010年10月15日号)

はい。今回のアメリカの大統領選投票も
「大きな問題」をかかえているようなのですが、
それを日本のテレビでは知らせてくれていない。
知ろうとすれば、今はネットがある。それなのに、
そのネットが消される事態になっておりました。
あなたは、どこを見ておりますか?
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ある日、新聞を読む。

2020-11-06 | 本棚並べ
岩波少年文庫の山田吉彦訳「ファーブルの昆虫記」(上下)の
あとがきをひらいてみる(下巻)。その途中から引用。

「・・・・これで、わかったと思う。

自然がわたしたちの本当の本だ。
活字をならべた本は、本当の本である自然を読む力を養うための、
頭の運動場だ。

活字になった話や人から聞いた話は、あまり
うのみにしないほうがいい。その例をあげておこう。」

こうして、二つの例を「あとがき」で教えてくれておりました。
まずは、ひとつめ

「ぼくは、きみたちの年ごろに、たいへんこまったことがある。
ある日、新聞を読むと、食事のとき水を飲むと、胃液をうすめるから
消化によくないと、ある医学博士が書いていた。
ぼくは当時胃が弱かったので、なるほどそうか、これは本当に違いない
と思って、食事の前やあいだに水を飲まないことにした。
二日ほどして、もうひとりの医学博士は、
水は胃を刺激して胃液の分泌をさかんにするから、
食事のとき飲むのほうがいいと書いた。ぼくはたいへんこまった。
どっちが本当だろうと考えた。そしていろいろ考えて・・・・・」

はい。ご自分で考えたことを書いておりました。
それについては、ここではカット(笑)。

最後に、ふたつ目の例を書いております。
うん。こちらも引用しなきゃいけません。

「ぼくの住んでいる村の林にはキノコがたくさん生える。
村の人たちに知れわたっていて、村の人たちが食べている
キノコはほんの一部分だ。残りは林で腐ってしまう。

そこでぼくはこう考えた。

これはもったいないことだ。あの中にはきっと、
食えるキノコがあるに違いない。
うまいキノコだってあるかもしれない。
ひとつ大学に持っていって調べてもらおう。
食えるものがあったら、おかずのない村の食卓が
どんなににぎやかになるか知れない。
あんなにたくさん林にあるのだから。
ぼくは林にいって、たくさん生えているやつを
十種類ばかり採集して、大学の植物学教室にゆき、
キノコの専門の先生に、食えるか食えないかたずねてみた。

『キノコには当たらないよい方法がありますよ。
ゆがいて、水を切り、それを水にさらしたら当たりませんよ』

なるほど、そうかとぼくは考えた。
大学の先生がそういうのなら確かにまちがいないと思った。
しかし、念のためにきいた。

『あなたはそんな料理のしかたをしてキノコを食べたことがありますか』

『いや、まだありません』

そこでぼくは考えた。
この先生の言うことはファーブルのキノコの話を、
そのまま言っているのかもしれない、と。

この点をたずねると、はたして、そうだった。
ファーブルの翻訳者のぼくは、ファーブルだけでは不安だったので、
大学に聞きにいったが、あやうく、
大学の先生の言う、ファーブルのことばを、
その先生の実験ずみのことばだと思いこむところだった。

知識では、うのみは時によると、このようにあぶないことだ。

       1954年12月   山田吉彦        」
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体裁はジュニア向きでも。

2020-11-05 | 本棚並べ
本棚から、向井敏著「本のなかの本」(毎日新聞社・1986年)をとりだす。
本の紹介本なのですが、見開き2頁に一冊の本を紹介して全150冊。
うん。このうち私が読んだのは、10冊もないのじゃないかなあ。

けれども、本の紹介本を読むのは、私の楽しみ。
そうして、その楽しみを満足させてくれる一冊。

え~と。はじまりは星新一著「明治の人物誌」からで
6冊目に、桂米朝著「落語と私」が登場しておりました。
ここには、その「落語と私」をどう取り上げているのか、
はじまりを紹介。

「体裁はジュニア向きでも内容はきわめて高く、
眼の肥えた大人にこそ読んでほしい本がある。

・・茨木のり子『詩とこころを読む』もそうだったが、
今一つ逸することのできないのが上方落語の第一人者、
桂米朝の『落語と私』。中学生向けの啓蒙書として書かれ、
文体はやさしく語り口は具体的、気軽に読めるように工夫されているが、
落語という話芸の本質を的確に把握し鮮明に説いた本は
ざらにあるものではない。・・・

落語にはほんとうの悪人はめったに出てこない。
といって、世人の鑑となるほどの大人物も見当たらない。
みんなそのあたりにいそうな人ばかり。
つまり、落語というのは
『大きなことはのぞまない。泣いたり笑ったりしながら、
一日一日がぶじにすぎて、なんとか子や孫が育って
自分はとしよりになって、やがて死ぬ』
と観念した、ごくふつうの世間を描く芸であることを
桂米朝は強調する。・・・」

はい。これで半分引用してしまいました。
うん。これでいいかと、「本のなかの本」を
本棚にもどします。

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どうぞ気楽に。

2020-11-04 | 本棚並べ
桂米朝著「落語と私」(ポプラ社・昭和50年)を
古本で購入500円。
うん。以前に文庫本で買ったのに、安心して、
読まないうちに、見えなくなりました。

単行本の表紙は、米朝さんが座布団で高座を
つとめている写真の全身像。右手に扇子をひらき、
右上をみながら、口をひらいて、語っている一瞬を
とらえています。うん。単行本ならでは。

まず、はじまりでお客さんをとらえるのですが、
この本の「はじめに」を最初から引用することに。

「日本人はむかしは、楽しみを持つことを罪悪のように考えていました。
それはその楽しさにひかれて、働いたり勉強したりすることを
怠けるようになるからでしょう。
しかし一方、
人間は楽しみがなかったら生きてゆけないものであることも、
むかしの人は知っていました。

その楽しみは、ある人には読書であり、ある人にはスポーツであり、
また旅をすることであったり、いろんな芸を鑑賞することであったり、
人によってさまざまです。

あるサラリーマンにとって魚つりは最高の楽しみであっても、
漁師にとってはそれは仕事で別に楽しみではありませんし、
休日にラジオを組み立てることを楽しみにしている人もいれば、
仕事として毎日、工場でラジオを組み立てている人もあります。

それが職業となると、楽しみもありますが、苦しみや悩みが伴います。」

うん。ここまで引用したら、
「はじめに」の全文を最後まで引用したくなりました。

「私は少年のころから落語が好きで、聞いて楽しみ、読んで楽しみ、
自分でしゃべりもしました。そしてこの芸からいろんなものを
吸収しました。この芸にとり組むことによって、他のさまざまな
芸の面白さも味わうことができるようになりました。

しかしこれを職業とするようになってから、苦しみや悩みが
生じてきて、ある時期、せっかくの好きな落語を楽しいものでなくして
しまったことにちょっと後悔を持ったこともありました。

ところが、その時期をすぎますと、今度は今まで気がつかなかった
おもしろさや、この芸の奥ふかさがわかるようになり、さらに
人生観というか、人間として生きてゆくうえの、心の持ち方、
人の気持ちへの思いやり、善悪その他の価値判断、そんなものまで、
私は落語を通じて考えさせられるようになってきたのです。

そして弟子や後輩に、やっと自信をもってなにかが言えるようになりました。
私はやっと50歳を迎えたところです。芸の世界ではこれから・・・
という年齢です。まだこれから私は変わってゆくかも知れませんが、
この時点で私はこの本を書かせてもらいました。

この本には私は少しもウソや誇張は書いていないつもりです。
みなさんに落語というものをわかっていただきたくて一生懸命に書きました。
別にかた苦しいことを書いているわけではありませんので、
どうぞ気楽によんでやってください。

  昭和50年11月     桂米朝  」





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海辺育ちの母に。

2020-11-03 | 本棚並べ
女子大生ということで、本棚から
曽野綾子と須賀敦子の本を出してくる。ここでは、
曽野綾子自伝「この世に恋して」(WAC・2012年)をひらく。

「私は幼稚園のときからカトリックの修道院が経営する
聖心女子学院に入れられました。帰国子女が多いけれど
大財閥の娘は少ない。まだ有名でもない学校でした。」
(p35)

ちなみに、
大庭みな子さんは1930年生まれ。
曽野綾子さんは、1931年生まれ。

「その当時の聖心は幼稚園、小学校、高等女学校は
白金三光町にありました。・・・・
当時の聖心は2万坪あって、敷地の一部には畑を作って
牛も飼っていました。これが修道院のしきたりなんです。」

「三光町の修道院で牛を飼っていたのは、ミルクと肥料を取るためです。
当時の日本の農業では・・普通の農家では下肥(しもごえ)と呼ばれた
人間のし尿を使っていたんです。
しかし外国人はそれをしませんから、どうしても牛を飼って牛糞を
必要としたんでしょう。生活というものの一部には、畑を作り、牛を飼い、
毎日まめまめしく労働をして、その一部として教育がある・・・
そのような風景として、私の心に焼きついていたのです。」(p38)

「皇后様は聖心女子大学の三級下でした。」(p188)
と美智子皇后さまとの写真も載っております(p189)。

「通っていた聖心という大学の英文科はアメリカ式に厳しいところで、
毎週一冊英語の本を読んでブックレポートを出さなくてはならない。」
(p64)

はい。今回この本をひらいて印象に残ったのは『魚』でした。
ということで、そこを引用してみます。

「母は福井の回漕(かいそう)問屋に生まれました。
私はこの母から、日本の田舎町の『魚文化』を習ったような気がします。」
(p25)

「・・お魚は豊富でした。ほとんどおかずとしては魚だけ食べて
生きてきたようです。それも家でもお料理しないんですよ。
浜の通りに新鮮な鯖(さば)を焼き物にしている店があって、
それをご飯の前になると子どもが買いにやらされるんだそうです。

こういう素朴な環境で育った母は、私に魚の鮮度の見分け方と
アラでも何でも全部使っておいしいおかずを作る方法を子どもの
ときから教えてくれました。ですから私は今でもお客様にご馳走
をするというとお魚料理しかできないんです。・・」(p25~26)

「その日、大学の帰りに、いつも夕飯の魚を買っている駅で降りました。
私は当時から所帯臭い娘で毎日必ず夕飯のおかずを買って帰っていたんです。
母があまり丈夫ではなかったので、そういう生活が当然と思っていました。

美味しそうなたくあんがあるとそれも買いましたけど、
当時はビニールなんてなかったから、新聞紙にいきなり
たくあんを乗せてざっと包んでくれるんです。
その臭いおつゆが教科書にしみることもありましたが、
生活なんてそんなもんだろうと思っていました。
あとで友達に聞いてみると、ほとんどの人がそんな生活を
したことがないと聞いて驚いたんです。
・・・・・・
その頃は食料品を買うにしてもまだ闇市みたいな店が並んでいる
ところです。雨が降ると足元が泥でぬかるような店でお魚を買っ
たりしていると、よく『奥さん』と言われました。
あんまり嬉しい話じゃないですけど、何しろ私は海辺育ちの母に
しっかり仕込まれていますから、魚の名前も知っていますし、
新しいか古いか、安いか高いかも良くわかりますしね。
とてもハイティーンの娘には見えなかったんでしょう。・・・」
(p53~54)

はい。これから寒くなれば、魚は身がしまって、
脂がのって、刺身でもぐっとおいしくなります。





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