そろそろ夕刻。小生の携帯でははっきりとした写真が撮りにくくなったので、JR「日暮里駅」へ。
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この坂も、「七面坂」と引き続き、台東区と荒川区との境界にあり、坂の上はJR日暮里駅北口です。(右が「台東区」、左が「荒川区」。)
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「台東区」側の標識。 「荒川区」側の標識。
御殿坂 (「台東区」の解説文)
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文政十二年(一八二九)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志科」には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。
また、「荒川区」の説明文では、「日暮里駅方面へ下る坂。江戸女台から用いられていた故障である。・・・当時の絵図などから
、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがわれる。・・・」とある。
ここで注目すべきは、「日暮里駅方面に下る坂」という点。
「台東区」の説明文にもあるように、もともと上野台地の東側を下る坂としてあったものが、JR線の敷設や「日暮里駅」の開設等で消滅してしまい、台地上にその一部が残っていると考えられる。
なお、「日暮里駅」の跨線橋の橋の名は、「下御隠殿橋」。もちろん、江戸時代当時からここに橋があったわけではない。
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○が「御殿坂」。A(「八面坂」)からB(「芋坂」)を結んでいたようだ。
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ほぼ消失している(戦前までは「日暮里駅」の西側に一部残っていたようだ)。
この坂の周囲にはまだまだ見所が多い。そこで、後日再訪したので、以下にそれを掲載します。
「本行寺」(月見寺)の境内には太田道灌の「物見塚」に関わるものがあります。
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「荒川区指定文化財/道灌丘碑」。
太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。
この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。
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陽炎や 道灌どのの 物見塚
その先の「経王寺」には、彰義隊にまつわるものがあります。
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赤い○が弾痕。
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「経王寺 山門」碑。 「門番所」。
明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。
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上野戦争(以下、「Wikipedia」による)
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。
抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。
5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。
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戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。