前日の雨とはうって変わった穏やかな晩秋の日差しに誘われて、「谷根千」へ。といっても、「鷹匠」でお蕎麦を食べて、そぞろ歩き。お酒も、おつまみも蕎麦もけっこうなお味。お客さんも少なくて、ゆっくりとできました。
さて、お店を出てからは坂道を上ったり下ったり、と、この辺りは何回も来ているので、少し南に下って(文京区と台東区の区界・「旧藍染川流路」跡の細い路地を通って)、不忍池方面へ。
「水月ホテル 鴎外荘」入口にある「森鴎外旧居跡」碑。
森鴎外旧居跡
森鴎外は文久二年(1862)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
明治二十二年(1889)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文芸評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月は処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官よしても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
平成十五年三月 台東区教育委員会
明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居には「水月ホテル 鴎外荘」が建っており、森鴎外の自筆原稿、写真など貴重な資料も保管・展示されています。また、敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢300年と推定される木が残り、「舞姫」の題字、署名、本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。
文学碑。「舞姫」の一節が刻まれている。
彼は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど手に入るは卑しき「コルポルタージユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを余と相識る頃より余が借したる書を讀みならひて漸く趣味をも知り言葉の訛をも正し幾ほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ、かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき
・・・碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」の原稿から子息森 類が選定した。碑に刻まれたものでは唯一の直筆です
長谷川泉 撰
「舞姫の間」。
ホテル奥のロビー。
近くに「上野精養軒」があるので、外のテラスで、しばしお茶を。隣のテーブルでは、老いた二人連れが、健康談義。こちらも話すことは相違ない・・・。
その帰り際、上野公園にありながら実は初めて見上げたのが、「時の鐘」。
時の鐘(ときのかね)
台東区上野の寛永寺に現存している時の鐘である。上野大仏の近くに建っている。
多くの「時の鐘」が江戸市中にあったが、上野の最初の鐘は1666年に。その後、1787年に現存する鐘ができた。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られてある。
また、「享保撰要類集」には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという。 1996年6月、環境省の残したい日本の音風景100選に選ばれた。今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれている。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉
この句は有名ですね。
夕暮れも近づきつつある、晩秋。
もう少し行ってみるかということで(というより、この前の「坂道行脚」で入りそびれた)、「旧岩崎邸庭園」に向かいました。すでに4時を回っていて、もう室内の明かりが灯されている。なかなかの風情がありました。
この洋館は、1896(明治29)年、岩崎彌太郎の長男で三菱三代目社長の岩崎久彌の本邸として造られたもの。往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたが、現在は3分の1の敷地になり、洋館、撞球室(ビリヤード室)、和間大広間の3棟のみ。
まあ、内装から何から、豪華絢爛。当時の庶民の(今でも)暮らしぶりからは想像も出来ない豪邸。近代住宅建築史上、希有の建物としての評価が高い、らしい。
1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。Aが現在の洋館、Bが和館、Cが「撞球室」以前の建築物? →の庭は築山風で池になっています。
なお、「Wikipedia」によると、
「旧岩崎邸庭園」として公開されているのは旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいた。
旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷であった。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878年(明治11年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によってジョサイア・コンドルの設計で建てられ、1896年(明治29年)に竣工したものである。1923年(大正12年)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。
1945年(昭和20年)、GHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となり、さらに敷地全体が国有化。GHQから国に返還された後、1969年(昭和44年)、司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となった。とのこと。
上記の地図(1880年頃のようす)は、初代・岩崎彌太郎が邸地を購入した頃のようすを示しているようです。
1970年頃のようす(「同」より)。
敷地の西側に接する建て物は「司法研修所」庁舎(改修後、現「国立近現代建築資料館」)等。
列柱の並ぶベランダ。
東南アジアの植民地で発達したコロニアル様式を踏襲したものらしい。1階の列柱はトスカナ式、2階はイオニア式の特徴をもつ、らしい(といっても、何のことやらわかりませんが)。
また、2階客間に貼られた「金唐革紙」の壁紙の豪華さ、精密さには驚きます。
和館大広間。書院造りを基調にした建て物。
撞球室。スイスの山小屋風の造り。校倉造り風の壁。洋館からは地下通路でつながっていた。
これに対して、芝生を敷き詰めた広い庭。変哲のなさが気になる。おそらく元々は池になっていて、回遊式の庭だった。
こうして、午後の半日。そぞろ歩きの末に、御徒町の「釜飯 春」に立ち寄ってお開き。最後はこのお店の雰囲気、客あしらい、出てきたものへの軽い批判を交えての食事でした。
年を取ると、お互いの立ち居・振る舞いが気になるのですね。注意!ちゅうい!