「七面坂」に向かう途中に、「岡倉天心記念公園」があります。
「岡倉天心宅跡 旧前期日本美術院跡」碑。
「岡倉天心記念公園」は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている、とのこと。
「六角堂」。
この場所に建てられた美術院は明治31年(1898)9月に竣工した木造二階建て。明治39年(1906)12月に茨城県五浦に移るまでここが活動の拠点となっていた。
公衆トイレも六角堂を模したもの、他にも公園内には、「六角」(形)へのこだわりが随所にある、らしい。じっくり見てくればよかった!
「五浦」の「六角堂」は、2011(平成23)年3月の「東日本大震災」の津波によって流失してしまったことが話題になりました。
流失直後。 再建後。
(「」HPより)
「宗林寺」を過ぎると、右手に坂があります。
この坂が、「台東区」と「荒川区」の区界になっています。左の写真で、右が「台東区」、左が「荒川区」。
七面坂
御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。
荒川区教育委員会
坂上から望む。
「諏訪台通り」を北に向かうと、「富士見坂」。
富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
荒川区教育委員会
関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり
平成16年11月
国土交通省関東地方整備局
が、現在では富士山は見ることができなくなってしまいました。
→
「不忍通り」沿いのマンション建設のため、この「富士見坂」からは見ることが出来なくなってしまったのです。
以下、「今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day」
「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.」HPより。
日暮里富士見坂から富士山を望むことができなくなって16ヶ月目。
坂上には、いまだ「あっちに見えるはず…」と西を指さす人が絶えない。
いま、富士見坂から富士山への通り道の途上に黒いビルが見える。生和コーポレーションが建設した「福信館」がみえる。
こうして、名前を告げることを非難する人もあると思うが、名前を伏せれば、話し合いの場をもうけると文京区は私たちに約束したが、残念ながら反故にされてしまった。同じように企業も私たちを脅し、そして約束は最後まで果たされなかった。
2011年12月、世界遺産の諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を歴史的な眺望遺産としてパリ総会で決議した。
翌2012年5月、その保全について荒川区、文京区、新宿区、豊島区、そして東京都、および新大久保に高層ビルの建設を予定していた住友不動産に対して勧告するとともに、保全を可能にするための眺望ライン作成に協力することを申し出た。
・・・
2014年10月16日 初冠雪の「すきま富士」。
今朝、日暮里富士見坂近くから、初冠雪の富士山を望むことができました。写真をよく見ると、山頂部分もビルのはざまに見えています。せめて、この風景を子どもたちに残したいものです。日暮里富士見坂からの富士山が復活する日まで。
以前、富士山の左肩部分を新宿区内に建設されたビルによって奪われ、今回は、右肩を奪われてすっかり見えなくなったようです。ただ、上の写真のように、この坂の近くから見えるところがあるようですが。
「富士見坂」は、富士山が見えなくても夕陽の光景が美しい坂道ですが、それに満足せず、「富士山」復活にかける心意気を強く感じます。
諏訪台通りを少し進み、「諏方神社」の脇を入ると、「地蔵坂」。
坂の先はJR「西日暮里」駅に向かう地下道。
地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
荒川区教育委員会
「地蔵坂」から戻ってくる頃には、すっかり夕焼け。
「富士見坂」の案内板。 夕焼けに染まる「富士見坂」。
「七面坂」のすぐ北側は「夕やけだんだん」、谷中銀座の道筋。うろうろしているうちに、夕陽がまぶしくなってきました。
「七面坂」。
(別の日に撮影)
1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
↓が「富士見坂」、○が「地蔵坂」、中央の東西の道が「八面坂」・「御殿坂」(「夕かけだんだん」付近)と思われる。←が現在のJR「西日暮里」駅付近。
なお、右下の曲がりくねった道が「芋坂」。