おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

象ヶ鼻。風祭一里塚。日本初の有料道路。山崎の古戦場。・・・(箱根路。その2。)

2014-11-10 18:16:45 | 旧東海道

 「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道があります。奥には古びた門。

  
                                    「説明板」。
 
 日蓮聖人霊跡 

 文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。
 その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。
      神奈川県皇国地誌残稿より

昭和47年8月13日
      日蓮聖人讃仰の有志一同
 

「踏切」を振り返る。

 静かな通りになります。  

 この地域は、「風祭」地区。

「風里(かざり)」。民家の喫茶・軽食のお店。

道ばたには祠。

「小田原の道祖神。風祭の一里塚塚」跡。(赤く塗ってあるのは、選挙ポスターのため。)
                 
                     「21番目の一里塚」。
東海道風祭の一里塚 

 ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に続けり」とある。

       
    のんびりと歩く旧道。まだまだ道はゆるやか。道幅もかつてのままのよう。

  
              通りの両側には、ミカンの木など。
 
小田原城主稲葉氏の墓所のある「紹太寺」付近から西を望む。

 「入生田」駅の先で踏切を渡ります。中央奥が「入生田」駅。



 国道1号線に沿ってさらに進みます。

  
「箱根登山鉄道」橋梁に「駒ノ爪」とある。             その先に「駒ノ爪橋跡」碑。

駒ノ爪橋跡 

 天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。
 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひづめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、道中足が痛まないよう祈願したということです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。
                                    箱根町
 国道1号線と合流する直前には、

「日本初の有料道路」碑。

日本初の有料道路

 明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。
 開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
                          箱根町

  
                合流点。微妙に広い空間がある。   歩道は線路脇の石段へ続く。

旧東海道の付け替え道を振り返る。

  
 線路沿いの歩道。ススキがたくさん。         混み始めた国道1号線。
  
「箱根町」交通安全のモニュメント。

  

 再度国道1号線に出る緑地帯に「山崎の古戦場」の石碑があるはずだが、この付近一帯、大規模な道路工事中。緑濃き一角あたりかと思うが確認できず。

 小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。
 
山崎ノ古戦場 神奈川県足柄下郡箱根町湯本

 明治元年(1868)5月26日、山崎村に布陣した遊撃隊と同盟から一転恭順の姿勢を示した小田原藩が激戦を繰り広げた古戦場跡。小田原藩の後詰めには長州、鳥取、津、岡山の諸藩が新政府軍として派遣されており、激戦の末、遊撃隊は箱根関所方面への退却を余儀なくされた。

HPより。)

箱根に向かう下り線は渋滞中。小田原方向を望む。

 しばらく国道1号線沿いに進むと、「三枚橋」。橋を渡って旧東海道へと進みます。
 
コメント
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