七五三場(しめば)地区に入る。
結城市の中心街から南へ車で約20分。古河市との市境付近は、「七五三場」と書いて「しめば」と読む。結城市の大字だ。漢字表記が読み仮名の字数を上回るこの珍しい地名には、どのような由来があるのだろうか。
結城市生涯学習課に問い合わせたところ、「何か言い伝えがあると聞いたことがある。住民なら知っているかもしれない」とのこと。早速、県道沿いに住宅が並ぶ七五三場の集落を訪ねた。
公民館に足を運ぶと、近くに住む川面七郎さん(81)に出会った。川面さんは「昔、お年寄りから、茂呂神社のしめ縄を張っていたから七五三場になったと聞いたことがある」と教えてくれた。
神社などで用いるしめ縄にはさまざまな種類があり、その一つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。しめ縄を「七五三縄(しめなわ)」とも書くのは、こうしたことに由来しているとされる。神社のしめ縄から、七五三場になったのではないか、というわけだ。
もっとも、七五三場や近隣に「茂呂神社」を見付けることはできなかった。北に隣接する北南茂呂地区にある「諏訪神社」のことを指しているのだろうか…。
その一方で「日本歴史地名大系」(平凡社)によると、現在の七五三場周辺を指すとみられる地名として、鎌倉時代に「志目波」、安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているという。
これが正しいとすれば、「志目波」が「志めは」に転じて「七五三場」へと変貌したと推測することができる。七五三場の字が当てられた当時は、読み方が先にあって、縁起の良い漢字を後から当てたのかもしれない。
(この項、「産経新聞」より)
では、「志目波(しめは)」と言う地名のいわれはどこから来ているのか、新たな疑問がわいてきます。
※香取市に住む「七五三(しめ)」さんが遠い親戚筋に当たります。おそらくこの苗字の読みは注連縄(七五三縄)から来ているものと考えられます。たしかに香取神宮の影響か神社が多い地域に住んでいます。
大きな屋敷の脇に「鎌倉街道」(↓)という案内板がありました。
矢印に沿っていくと、竹藪に。
この先で地元の方に出会うと、街道の西側100㍍ほどのところに道があって結城の方まで続いている、とのこと。
立派な門の屋敷や広い敷地の家が目立ちます。
「七五三場」バス停。
馬頭観音。判読不能です。
振り返る。
集落を抜けると、視界が広がる。
右手遠くに筑波山。
左手にも畑が広がる。
「茨急バス」北茂呂車庫。
使用されなくなった古いバス停が置いてある。
古河駅からのバスの終点。
筑波山の双耳峰が重なって見える。
面白い形状の火の見櫓。
路傍の石碑。戊辰戦争に関わるもののようです。
戊辰戦争においての結城藩の動向は別の機会に。
左に「しもふさの郷」。
右手に広大な土地に太陽光パネルが設置されています。
シャープ結城太陽光発電所。
かつての「しもうさ東武CC」の跡地のようです。
結城市はかつては千葉県でした。現在は茨城県です。そのいきさつは?
「大戦防」交差点。
ここ一帯は、戊辰戦争の激戦地でした。この付近は、少し高台になっているので、「台仙坊」「大仙坊」などと言われていたそうです。どういういきさつで「大戦防」となったのか、諸説有るようです。
一説では、慶応4年(1868)に官軍と結城藩の激しい戦いがあり、その後に「大戦坊」と字が変わったということです。
この先の「武井宿」も官軍・幕府軍の戦闘で破壊されてしまったようです。