旧道を振り返る。国道4号線バイパス建設で寸断された道。
JR「自治医大駅」から前回の到達点(「薬師寺南」交差点)までやってきます。今回は、ここからスタート。
いよいよ今回でゴール。昨今、夏日が続く東京地方。出かけた日から掲載がたまって、季節感が合わなくなってきました。
集落内の細道を進み、突き当たりを右折して県道に合流します。この先は、県道沿いに進むことに。
この付近の今昔。
1880年代のようす。○が鈎型。 2010年代のようす。旧道が残されている。
旧国分寺町のマンホール。
・南河内町、国分寺町で運営されていた「自治医大周辺下水道組合」の 汚水管マンホール蓋。
デザインは、かつて下水道組合を構成していた南河内町と国分寺町の町花が共に「菊」であったことから、その菊を幾何学模様でデザインしたもの。
広い敷地の家や石造りの蔵など。
右手に馬頭観音・道標(「右 小金井道」と刻まれている)。屋根の下には石塔が2基。
落ち着いた街並み。
「龍興寺桝形境内」碑。方形の広場になっています。
※1880年代の地図ではこの桝形は記されていません。お寺の位置も少し異なるようです。
境内左手に「道鏡禅師の墓所(道鏡塚)」。
奈良時代の高僧、道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁から法相を学び、梵文と写経に通じ、・・・薬法や医術にも精通した興徳の僧です。天平勝宝年間、宮中内道場の看病禅師となりました。そして孝謙上皇の病を療治した功績により、天平宝字7年(763)、少僧都に任じられました。次の年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。・・・道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に準ずる待遇の法王に任命されました。禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を挙げましたが、称徳天皇が崩御されますと、下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、平城の都から遣東されました。禅師は下野薬師寺に着任後も各地で積極的に巡錫や親教をし、多くの人々を教化されましたが、宝亀3年(772)・・・静かに遷化されました。人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として手厚く葬りました。私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざしています。
案内板には触れられていないが、一般に道鏡と言えば、孝謙上皇(称徳天皇)の信頼をいいことに天皇の位までを狙い、大分の宇佐八幡宮から道鏡に天皇の位を譲れと託宣があったとしたが、真偽を確かめに派遣された和気清麻呂から、道鏡を天皇にしてはいけないとの託宣があったとの報告、さらに後ろ盾だった称徳天皇の崩御が重なり、失脚して下野薬師寺に左遷された、ということになっています。
左遷されたあと、薬師寺での禅師の人となりは、この説明板のようであっただろうと思われます。
樹齢500年のシラカシの巨木。
※境内には鑑真和尚の碑もあるはずですが、探しそこねました。
立派な門と塀のある野口家。
こちらの家も立派。
さて今回お目当ての下野薬師寺跡を訪ねます。
広大な敷地跡。
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この説明板は、下野薬師寺跡と周辺を表示しています。方位は遺跡と一致させており、この説明板の上方向が北になります。縮尺は1/100で40㎝の正方形陶板を組み合わせて作っています。40㎝の実際の長さは40mで、表示板全体では東西600m、南北780mになります。
下野薬師寺の寺域は外郭施設の塀に囲まれた範囲で、東西250m、南北350mです。茶色に着色してあります。下野薬師寺の寺院地は広大でした。表示板の広さと実際の整備地区や周辺地区の広さを比べてみてください。