関宿城埋門(うずめもん)。
解説板。
この埋門は、もとは関宿城三の丸に設置されていたものです。平時は本丸までの通用門として使用されていましたが、簡素な造りのため籠城戦の際には、内側を三分の二の高さまで土で埋めて、敵の侵攻を防ぐという役割を担っていました。
明治維新後、廃城に伴い民間に払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋(久世鷹の羽)があしらわれ、城門であったことを現在に伝えています。
千葉県内において現存する数少ない城の建築物の一棟です。
↓の部分に久世家の家紋が。
正面。
奥のおうち。
県道に合流する手前右手に「路分け六地蔵」があり、脇の二十三夜塔が道標になっているようです。
解説板。
・・・六地蔵の側に「天保八年九月吉日」(1837年)と年号が刻まれている二十三夜塔があります。側面に「左木間ヶ瀬・右江戸道、ほうしばな」とあります。・・・地域の人たちに長い間愛され続けてきた六地蔵です。そして長い間路分け地蔵として旅人や多くの人たちに役に立ってきました。今でもこの三叉路と路分け地蔵が立つ場所は、当時のままの姿で残っており、またこの付近の道筋も変わっていません。
県道を進んでいくと、右手前方に「利根川」の土手が見えてきます。
「街道ラーメン」。
ここを右折し、旧道へ。
花山橋。
利根川土手下まで田園地帯が広がる。
旧道らしい雰囲気。
県道に合流。左手に富士浅間神社。
「長命庵」。
人気店のようです。
(「長命庵」HPより)
関宿台町。
大銀杏。その下に「二十三夜塔」。
道筋には神社・仏閣が建ち並んでいます。
町の花ボタン。町の木イチイ。
関宿台町交差点。
「関宿関所跡」碑を確認するため、左折して江戸川土手方向へ進みます。
「江戸町」バス停。
大きく道がカーブするところに「関宿関所跡」碑。
解説板。
関宿関所と棒出し
・関宿関所
幕府は、江戸と地方を往来する船が必ずこの関宿を通ることからここに関所を置き、船の積荷や人改めを厳しく行いました。この関所を通るためには通行手形がないと通ることができませんでした。
関所があった場所は、江戸川流頭部の堤防が突き出した「棒出し」と呼ばれる施設の上に置かれ、関宿藩が関所の管理をしていました。
・棒出し
棒出しの設置時期は、文政5年(1822)、天保期(1830~43)など諸説ありますが、天明3年(1783)の文書に棒出しの記述があるからから天明3年にはすでに設置されていた可能性があります。
棒出しの目的は、利根川・逆川・江戸川への水量調節にありました。
昭和2年(1927)に関宿水閘門が完成すると昭和4年(1929)に撤去されました。
※「関宿水閘門」は、利根川・江戸川歩きの時に確認しました。
江戸川土手。
1880年代のようす。両岸の賑わいぶりが知れる。
○が現在の「関所跡」碑付近。右が江戸川、左が権現堂川(二つの川の上流が逆川で、利根川から分岐している)。
2010年代のようす。○が「関所跡」碑の付近。
上の図からも分かるように、河岸にあった江戸町の中心は、江戸川改修で失われてしまっている。また、権現堂川は流路変更によって、利根川・江戸川から切り離されている。