都営地下鉄新宿線「東大島駅」。駅の下を旧中川が流れています。
今回から新シリーズ。
都内東部に流れる「荒川」、「江戸川」と歩いたので、身近な川の「中川」を歩いてみようか、と。
現在の中川は、かつては名称を「中川放水路」として、荒川(かつては「荒川放水路」)に併行して綾瀬川と合流し、東京湾まで流れています。
「荒川」が開削される前は、そのまま東京湾に注いでいました。荒川によって寸断された流れは、「旧中川」として荒川の西側に残っています。といっても今の旧中川は上流(「木根川排水機場」)も下流(「荒川ロックゲート」)も閉鎖され、上流(荒川)から下流(荒川)へと流れているわけではありません。
しかし、かつての流れのまま、江戸川区と江東区、墨田区との区界になっています。
2010年代のようす。流路はほぼかつてのまま。 1880年代のようす。東京湾まで流れている。
さらに中川の上流は、埼玉県・吉川で、「古利根川」と分岐した上流は、直線的に開削された人工運河(のような川)となっています。
そこで、今回の歩きは、「旧中川」→「中川」→「古利根川」(正式には、「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」
という具合に歩いてみます。
・第1回目 「荒川ロックゲート」~「環七・青砥橋」(「旧中川」・「中川」)
・第2回目 「青砥橋」~「新中川水道橋」(「中川」)
・第3回目 「吉越橋」~「藤塚橋」(「中川」・「古利根川」)
以下、順次、歩いて行く予定です。
※「中川」について、「Wikipedia」より。
現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ。河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。
この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。
5月11日(水)。晴れ。
「荒川ロックゲート」・荒川側出入口。
対岸は、船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。正面、首都高・橋脚下あたり。
「旧中川」側。
解説板。
荒川ロックゲート(閘門)とは?
図解による解説。
旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川と旧中川は水位差が最大で約3.1mにもなりますが、荒川ロックゲートにより結ばれ、荒川と隅田川にはさまれた江東デルタ地帯への水上交通が両方向になりました。
もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左の○は、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右の○は、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されています。
※地図は「今昔マップ」より引用。
旧中川。
解説板。
享保14年(1729)幕府は井沢弥兵衛に命じて、古利根川沿岸の治水を計るため、猿が俣(現在の葛飾区水元猿町)以下の細流の拡張を行いその後、寛保2年7月(1742)洪水に見舞われ再度改修工事を行った。現在流域面積641平方キロメートル。名前の由来は東西葛西領の中間を流れるから「中川」という説がある。中川と小名木川の交わる、中川番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの名所であったと言われている。
※上部に船から釣りをする人を描いた画が添えられている(「江戸名所図会」より)。
正面が旧中川最奥部。
「平成橋」から「東大島駅」方向に戻り、出発です。
東大島駅と荒川ロックゲートとの往復に40分くらいかかりました。
正面の森は、「大島小松川公園 風の広場」。
小名木川。
この川は、東から西まで「鮮魚街道」歩きの番外編で歩きました。
一直線で西に向かう人工の運河。
1880年代のようす。川の周囲は町屋の他は、水田。
2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。
1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。
いったん小名木川沿いに歩き、小名木川に架かる「番所橋」から旧中川へ。
周辺図。
正面・風の広場の丘の上に見えるのが旧「小松川閘門」遺構。
小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
※写真はかつて訪問した時に撮影したもの。