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ついこのあいだ、図書館で、
『江戸と東京の坂』(山野 勝)日本文芸社
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なる本を手にしたとき、さっそく出かけてみようと思った。
坂道を上り、下り・・・。とりわけ「昔のよすが」を今に偲びながら訪ねてみながら、という趣向。
その手始めに「第一章 本郷の坂」を、筆者が紹介されたコースそのままで歩いてみた。
山野勝さん、「日本坂道学会」の会長さんとしての長年の実踏と蘊蓄でものされたこの本に従って行けば、初心者でも迷うことなく、足と眼と耳と・・で味わうことが出来る、と安易な思惑。せめて、その中で新しい発見があれば、歩いた甲斐があるというものか。
今回のコースは、大江戸線「春日」駅をスタートし、「春日」駅まで戻ってくるという周遊コース。坂道の多さに改めてびっくり!
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薄いピンク色が台地、薄い緑色が低地を表す。
それぞれの標高。↓A地点(春日駅付近):約6㍍、←B地点(「菊坂」と「本郷通り」との交差点付近):約20㍍、↑C地点(JR・水道橋駅付近):約4㍍。
東大の西側付近の標高:約23㍍、「菊坂」の南側も20~21㍍の台地。たしかに上り下りの多い地域。
道の上り下りは橋を渡るときくらい、という隅田川以東の住民には新しい発見が多そう。
でも、買い物にお出かけに、どこへ行くにも坂を上ったり、下ったり、それも自転車で、子連れで・・・。お年寄りも大変そう。そういえば、「春日」駅前の駐輪場には「電動付き自転車貸し出し」という表示がありました。
下りは勢いがつきすぎて危ない、上りはあえぎあえぎ・・・、、膝の負担も。
車も狭い坂道を転がるように走ってくる、歩行者の避けるのもやっと、というところも。・・・
坂道の情緒、新たな発見などと悠長なことを考えて、のんきに歩く暇人とは訳が違いそう。邪魔にならない程度に歩くことにします。
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おおむね二つの赤い○を歩いたことになる。昼飯休憩タイムも入れて、約2時間40分。(左がほぼ南方向。)
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1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右上の端に「赤門」。
「春日」駅の地上口に出てから「白山通り」(中山道)を進み、「西片」(「言問通り」の延長道路)の交差点を右に曲がります。
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明治20年創業のお店。店構えも古さが伝わってくる。
「菊坂下」の交差点を少し過ぎて右折します。いきなり急な上り坂。
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区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。
坂を上り詰めると、左側に「太栄館」という旅館があります。その玄関前に、
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石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児に (明治41年9月14日作・蓋平館で)
-郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会 昭和56年9月
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その旅館も今年の6月に閉館となってしまいました。
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閉館のお知らせ
平成26年6月をもちまして閉館致しました。
これまでの永年にわたるご愛顧に心より深く感謝申し上げます。
さらに奥へ進み、路地を入ると、徳田秋声の旧宅があります。
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東京都指定史跡
徳田秋声旧宅
徳田秋声(1871~1943)は、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家です。明治4年(1871)現在の石川県金沢市に生まれました。明治29年(1869)に発表した「藪かうじ」で文壇に初登場しました。
この家には、明治38年(1905)から73歳で亡くなるまで約38年間居住し、創作活動を行っていました。秋声は自然主義文学の第一人者として名を馳せ、「新世帯」「足跡」「黴」「爛」「仮装人物」 などを執筆し、「仮装人物」で第1回菊池寛賞を受賞しています。これらの代表作はすべてこの家で書かれています。
旧宅は、明治末期に建築された母屋とその後に増築された離れの書斎、そして二階建て住宅部分、庭などで構成されています。日常愛用の蔵書、調度品、日記、原稿など、遺品もきわめて多く保存されています。指定地域面積は訳445.5㎡です。
平成22年3月 建設
東京都教育委員会
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「竹藪」。
隣家と二棟が昔の面影を残しているだけのようですが、周囲は、雰囲気の落ち着いた住宅街です。
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しばらく路地を右左折していくと、左手に「旅館・鳳明館」があります。その先は急な坂。
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前方を歩いていた女性の姿が一瞬のうちに見えなくなった。
この胸突坂を含め、区内には胸突坂と呼ばれる坂道が3ヶ所あります。その一つ、西片2丁目と白山1丁目の間にある胸突坂については、「坂路急峻なり、因て此名を得」(『新撰東京名所図会』)とあり、もう一つ関口2丁目と目白台1丁目の間にある胸突坂については、「あまりに坂之けはしくて胸をつくばかりなれば名付といふ」(『御府内備考』)とあります。本郷5丁目にある、こちらの胸突坂も、他の2つの胸突坂同様に急な傾斜の坂道です。坂名もやはり、その急な傾斜に由来するものでしょう。
(「
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そのまま下ると、「菊坂」に合流します。
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菊坂 ―樋口一葉ゆかりの坂道―
本郷通りにある小さな坂、見送り坂・見返り坂が落ち合う地点から菊坂下交差点まで続く、長くゆるやかな坂道が、現在、菊坂と呼ばれています。江戸の地誌を見ると、「本郷丸山本妙寺の前なる坂をいふ也」(江戸鹿子)、「菊坂はもと菊坂町より東に向ひ、台町に上る急坂の名なりし」(新撰東京名所図会)などとあり、本妙寺坂・胸突坂、そのほか梨木坂など、菊坂周辺の坂道も、かつては菊坂と呼ばれていた時期があったようです。
菊坂には、くらしに困った樋口一葉がたびたび通った旧伊勢屋質店の土蔵(国登録文化財)も現存します。菊坂中腹からやや北には、かつて宇野浩二・竹久夢二・谷崎潤一郎・広津和郎・・・多くの文人たちが止宿した菊富士ホテル跡地があります。
菊坂は、近代文学の香が残る坂道です。
(「同」より)
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緩やかな上り坂を進みます。この界隈にはまだまだ見所がたくさんあります。
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