おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「高砂橋」~「JR新金線・新中川橋梁」。(「新中川」を下る。その1。)

2013-05-24 22:51:43 | 世間世界
 爽やかな季節。かなり暑くなってきましたが、まだ乾いた空気。真夏のむしむしした気候とは違い、少しばかり快適。久々に川沿いの道を折り畳み自転車で下りました。「荒川」、「隅田川」(まだ最終ゴールまで行っていませんが)に続き、今回は、「新中川」。葛飾区・高砂橋下流で「中川」と分岐して南に下り、江戸川・瑞江付近で「旧江戸川」と合流します。およそ1時間半ほど(写真を撮ったり少し寄り道して)。ほぼ一直線。両岸とも遊歩道・サイクリングロードがほぼ完備しています。左岸(東側)を下りました。
 「新中川」は、以前、「中川放水路」と呼ばれていました。完成してから今年がちょうど50年目。そこで、というわけです。
概念図。
開削工事前のようす。田畑が目立つ。青色が新中川。(「今昔マップ」より)
 
 1947(昭和22)年9月、カスリーン(キャサリン)台風によって東京東部大規模に浸水被害を受けたことで、本格的に中川改修が検討され、1949(昭和24)年、中川放水路(新中川)の開削が始まり、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963(昭和38)年3月に中川放水路は完成しました。その後、一級河川に指定され、河川名が「新中川」と改称されました。
 カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県東村(現在の埼玉県大利根町付近)での利根川堤防の決壊。この地点は、利根川の水が集中する上、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点でもあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていました。
 こうした要因によって、1947(昭和22)年9月15日午後9時ごろ堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに、東村の利根川右岸提が340㍍にわたって決壊。濁流は南に向かい、午前3時には栗橋町、午前8時には鷲宮町、午前10時には幸手町(現在の幸手市)、午後1時には久喜町(現在の久喜市)に到達します。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には、笠原村(現在の鴻巣市)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達した。水は「櫻堤」に堰き止められてどんどんと溜まる一方であり、これが決壊すれば、東京の下町は一気に濁流に飲み込まれることとなる。
 そこで、隣の江戸川右岸提を爆破して、江戸川に水を逃がす事を決定。進駐軍の工兵隊が現場に急行するが、堤防は頑強で爆破は失敗してしまう。19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没します。19日午後3時ごろようやく爆破に成功し、「櫻堤」付近の水は江戸川へと流れ始める。
 同じころ、八条村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめる。
 なお、利根川の決壊個所の復旧工事は70日あまりの期間で、のべ16万人が動員されたという。その後、利根川や江戸川ではこうした規模の洪水は発生していません。(以上、「wikipedia」による。)
 
 ずっと以前住んでいた家は、昭和21年頃に建てられた家であった。そこに移り住んできて、しばらく経って物心がついたころ、家のどこの柱にも、ちょうど子どもの背丈くらいのあたりが、黒ずんでいたことに気付きました。その時、これがその台風の爪痕だということを、父親から聞いたことがあった。(その時は、キャサリーン台風と聞き覚えていたが)それが後年まではっきりと残っていて、そのすさまじさに、子供心にも驚いたものでした。
 なお、この2年後に大型で強い台風、キティ台風が上陸。高潮のために、今度は下町の江東区や墨田区などを襲って、浸水などの大きな被害を受けた。わずか2年足らずの大型台風の被害だったので、この台風と混同している人もいるようです。
 
 冒頭の写真は、高砂橋から中川と新中川の分岐点を望んだもの。正面奥の緑が「新中川通水記念公園」。下る前に橋を渡ってちょっと寄り道。
その公園に「中川放水路通水記念碑」があります。
碑の裏面。すでに文字がかすれて判読不能の箇所もあります。
「新中川通水記念公園」の全景。
そこから望む「高砂橋」。

 
 さて、これで予備知識を得たので、下ることにしましょう。
高砂橋から。こちらが、中川。遠くにスカイツリー。

 今でも蛇行している「中川(古利根川)」は、かつては流路が幅広く、氾濫原や入り込む流水もありました。環七「青砥橋」を越えた辺り。
赤く囲ったところ。黄色い線は「環七」。
そこを埋め立てて整地して葛飾区運動施設がつくられています。かつての中川に流れ込んでいた水路跡がその周辺道路として残っています。
「環七」から回り込んだところ。かつての水路のようにカーブしています。
周囲を土盛りしています。左がグランド。右方向に「新中川」。
奥の施設は「温水プール」。

「新中川」と金町と新小岩を結ぶJR貨物線との間には、畑が続きます。運良く電気機関車が通過。日に数回しか通らないはずなので、ラッキーでした。
舗装された歩行者・自転車専用の道路。
川面には立ち入れません。眼下に青さと新緑を眺めながらの自転車こぎ。
下流を望む。
「新金貨物線」の踏切の名称「立石大通踏切」。立石「大通」りという名称は、その道がかつての東海道(官道)であったことを示しているようです。

「古代東海道」(奈良~常陸)
 大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。(ここでも、何度か紹介済み)

 《豆知識》京成電車は、かつてこの立石大通りから四ツ木にかけて(「古代東海道の一部を)走っていました。
赤い線が「京成電気軌道」。青い線が「古代東海道」。(1924年ころの地図「今昔マップ」より)
右の道が「古代東海道」、左にカーブして荒川方向に進む道がかつての軌道跡だと思われます。

中川放水路の開削工事では多くの家屋が立ち退きになりました。JR新金線も同様。まっすぐに進んでいた線路は東側にカーブすることになりました。ここがもともとの線路だったところの分岐点。金町方向を望む。
線路跡は舗装道路になっています。右が旧線路。左が現在の線路。
新中川土手から見たところ。直線道路が旧線路。
このあたりからモーターボートなどの係留が多く見られます。奥が「新金線」の橋脚。
「新金線」複線化の予定があったのか、橋脚がそのまま残っています。新中川を越えてからしばらくして総武線と合流します。

《ここまでの橋》
・高砂諏訪橋
・細田橋
・三和橋
・八剣橋
・奥戸新橋(奥戸街道・葛飾区)
・JR新金線新中川橋梁

《これから先の橋》
上一色橋(蔵前橋通り・江戸川区)
上一色中橋
JR総武本線新中川橋梁
辰巳新橋
小岩大橋(千葉街道)
松本橋
鹿骨新橋
鹿本橋
大杉橋
一之江橋(京葉道路)
新椿橋
首都高速7号小松川線
南椿橋
春江橋
涼風橋
明和橋
瑞江大橋
新今井橋(新大橋通り)
瑞穂大橋



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