直線道路で、特に撮るべきものないので、沿線の大型店舗(食べ物屋さん)でも撮っていこう。
「東京から44㎞」ポスト。
時間の関係かどこも車が一杯。
左側の方が少し田圃や東武線の線路が見えますが。
はるか前方に「山田うどん」の看板。「山田うどん」はこの辺りの定番。
(13:08)何の気なしに近づいてみたら、何と「茨島一里塚」解説板。
慶長9年(1604)、江戸幕府は大久保石見守長安に命じて、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとする主要街道に一里塚を築かせた。江戸日本橋を起点とし、一里ごと(約4キロメートル)に街道の両側に大きさ約9メートル四方の塚を築き、道のりを表す印として旅行者の目安とした。
ここ茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。
こうした一里塚も明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない取り去られてしまった。
杉戸町教育委員会
この一里塚は、江戸・日本橋から11里目。
その付近から振り返って望む。
幸手市に入ります。
(13:15)「東京から45㎞」ポスト。
「爆弾ハンバーグ」のお店。
(13:23)ようやく国道から離れて左の道を進みます。
しばらくのどかな田園風景が広がります。カルガモのつがい。
畑の向こうを東武線の電車が通過中。
東武線の踏切。
田植えを終えたばかりの田圃が一面に。
「上高野村道路元標」。「幸手市南公民館」正門脇にあります。
御成街道ぞいの石井酒造前の橋のたもとに建てられていたもので、平成2年1月の歩道工事のとき、旧日光街道ぞいでもあるこの場所に移転されました。
道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定したものです。
この元標のの年代は不明ですが、大正8年(1919)に法律の定めにより各市町村に一ヶ所ずつ建てられることになった、という記録が残っているので、合併以前の旧村時代のものと考えられます。
幸手市教育委員会 幸手市南公民館
その先にの「圏央道」の高架下をくぐります。この付近の旧道は少し替えられたようです。
(13:42)この先で、「日光御成街道」との合流点に。「ベルク」に突き当たります。左からの道が「日光御成街道」。
日光道中・日光御成道合流点
日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・粕壁を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。
幸手市教育委員会
「日光道中」。 「日光御成街道」。
(HPより)
1880年代のようす。↓が合流地点。
「東京から44㎞」ポスト。
時間の関係かどこも車が一杯。
左側の方が少し田圃や東武線の線路が見えますが。
はるか前方に「山田うどん」の看板。「山田うどん」はこの辺りの定番。
(13:08)何の気なしに近づいてみたら、何と「茨島一里塚」解説板。
慶長9年(1604)、江戸幕府は大久保石見守長安に命じて、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとする主要街道に一里塚を築かせた。江戸日本橋を起点とし、一里ごと(約4キロメートル)に街道の両側に大きさ約9メートル四方の塚を築き、道のりを表す印として旅行者の目安とした。
ここ茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。
こうした一里塚も明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない取り去られてしまった。
杉戸町教育委員会
この一里塚は、江戸・日本橋から11里目。
その付近から振り返って望む。
幸手市に入ります。
(13:15)「東京から45㎞」ポスト。
「爆弾ハンバーグ」のお店。
(13:23)ようやく国道から離れて左の道を進みます。
しばらくのどかな田園風景が広がります。カルガモのつがい。
畑の向こうを東武線の電車が通過中。
東武線の踏切。
田植えを終えたばかりの田圃が一面に。
「上高野村道路元標」。「幸手市南公民館」正門脇にあります。
御成街道ぞいの石井酒造前の橋のたもとに建てられていたもので、平成2年1月の歩道工事のとき、旧日光街道ぞいでもあるこの場所に移転されました。
道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定したものです。
この元標のの年代は不明ですが、大正8年(1919)に法律の定めにより各市町村に一ヶ所ずつ建てられることになった、という記録が残っているので、合併以前の旧村時代のものと考えられます。
幸手市教育委員会 幸手市南公民館
その先にの「圏央道」の高架下をくぐります。この付近の旧道は少し替えられたようです。
(13:42)この先で、「日光御成街道」との合流点に。「ベルク」に突き当たります。左からの道が「日光御成街道」。
日光道中・日光御成道合流点
日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・粕壁を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。
幸手市教育委員会
「日光道中」。 「日光御成街道」。
(HPより)
1880年代のようす。↓が合流地点。
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