おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

角穀。カスリーン台風。(「日光道中」をゆく。その16。)

2016-05-26 23:17:28 | 日光道中
(12:25)再開です。駅前には食べ物屋さんが思ったよりもなくて、飲み屋さんの「庄や」さんがお昼もやっていたので、そこで昼食。

まだまだ古いおうちが残っています。古びた「板ガラス」の看板。

なぜか沿道には酒屋さんが目立ちます。

 宿場特有の舛型に近づく手前には道標が。「左 久喜方面 右 幸手方面」。

お休み処のような一画には浮世絵。

浮世絵『日光道中杉戸』
 この浮世絵は安藤広重の作と伝えられる。タイトルは「杉戸宿」となっているが、宿内ではなく清地村・近津神社東側一帯にあった弁天池を描いているとの説がある。
HPより)

    

角穀跡/小島定右衛門邸
 宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
 かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
 創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。
                       

 「草加宿」の時と同じような「枡形(曲輪)」=「曲尺手(かねんて)」となっている道筋、建物も立派です。

(12:35)振り返って宿内を望む。

1880年代のようす。

現在のようす。

「宝性院」。

電柱に巻かれた赤いテープ。
 これは、昭和22年カスリーン台風での実蹟浸水深を示すもの。ここは、0.4m。

カスリーン台風



 1947年(昭和22年)9月8日未明にマリアナ諸島東方において発生し、次第に勢力を増しながら9月14日未明には鳥島の南西 400 km の海上まで北上。このとき中心気圧は 960 mb (960 hPa)、最大風速は 45 m/s に達していたと推定されている。
 その後台風は、15日未明に紀伊半島沖の南、北緯32度付近で進路を北東に変え、勢力を弱めながら同日早朝に遠州灘沖合いを通過(中心気圧は 970 mb と推定)。夜に房総半島南端をかすめ、16日には三陸沖から北東に去っていった。
 台風接近時の日本列島付近には前線が停滞していたと推定されており、そこに台風によって南からの湿った空気が供給され前線が活発化。これが9月14日から15日にかけての戦後治水史上に残る大雨を降らせた。
 この台風による死者は1,077名、行方不明者は853名、負傷者は1,547名。その他、住家損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没 12,927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。
 特に、群馬県の赤城山麓や栃木県の足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。また、利根川や荒川などの堤防が決壊したため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した。
 なお、東北地方では北上川が氾濫。岩手県一関市などで被害が出ており、岩手県内では109人の死者を出している。

 カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市[大利根地域・北東部])での利根川堤防の破堤である。利根川の水は全て「新川通」という人工の直線河道に集中することになっていた。それに加え、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
 こうした要因によって、15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに北埼玉郡東村の利根川右岸提が 340m にわたって決壊。濁流は南に向かい午前3時には北葛飾郡栗橋町(現在の久喜市[栗橋区域・北部])、午前8時には南埼玉郡鷲宮町(現在の久喜市[鷲宮区域・西部])、午前10時には北葛飾郡幸手町(現在の幸手市中心部付近)、午後1時には南埼玉郡久喜町(現在の久喜市[久喜区域・中心部付近])に到達する。濁流の進行速度は決して早いものではなかったが、濁流がどこに流れるか、どこに避難するべきかという情報に乏しかったため、避難はスムーズに行かなかった。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には北埼玉郡笠原村(現在の鴻巣市東部)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には南埼玉郡春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて北葛飾郡吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川および小合溜井の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達し、そこで濁流の進行は一時的に食い止められる。
 しかし、水は「櫻堤」に堰き止められてどんどんと溜まる一方であり、これが決壊すれば東京の下町は一気に濁流に飲み込まれる事となる。そこで、東京都知事は内務省、埼玉県知事、千葉県知事と協議の上、隣の江戸川右岸提を爆破して江戸川に水を逃がす事を決定。進駐軍の工兵隊が現場に急行するが、思いのほか堤防は頑強で爆破は失敗してしまう。そうしているうちに、19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没した。
 19日午後3時ごろようやく爆破が成功し、「櫻堤」付近の水は江戸川へと流れ始めたが、同じころ南埼玉郡八條村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には立石・四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。
 このカスリーン台風を教訓として、経済安定本部は水害による大都市への被害を防ぐことを目的に本格的な治水事業に乗り出す。・・・

(以上「Wikipedia」より)

 これは建て直す以前の古い我が家にもかなり後まで浸水の爪痕が残っていたので、直接は経験はしませんでしたが、床上浸水の跡として記憶しています。この後も相次ぐ台風や高波被害によって、東京の下町東部では、新中川の開削や東京湾の海岸堤防の建設など防災計画が進みました。

 この先もこの赤テープが出てきますが、進むにつれてだんだん浸水水位が深くなっていきます。「日光街道」沿道も大きな被害にあったことが分かります。

    
                          右手に大きなお屋敷。

沿道には「杉戸宿」案内石柱。

道路の向こうの電柱にも浸水水位の赤テープ。1mを越えています。

来た道を振り返って望む。

(12:45)しばらく進むと、「国道4号線」に合流します。その先には、ペコちゃんポコちゃんが屋根の上に。この先は、3㎞近く、ひたすら国道歩き。
           
 
 ところで、どっちがペコちゃん? それに、「ポコちゃんペコちゃん」という言い方が正しいのか?

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