おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「三丁目坂」。「鉄砲坂」。「鳥尾坂」。「七丁目坂」。・・・(関口・目白台の坂。その4。)

2015-04-20 20:38:00 | 都内の坂めぐり

 「護国寺」前からまっすぐ南に伸びる、広い道が「音羽通り」。かつては長くて賑やかな門前町を形成していました。今も、「講談社」をはじめ、活気のある道筋になっています。
 さて、その「音羽通り」(音羽谷)から目白台へ向けて、東から西への坂道が並行していくつかあります。

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「鳥尾坂」、「七丁目坂」、「目白新坂」、「目白坂」(北から南の順)。それらの探訪です。
 



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「七丁目坂」、「目白坂」等が表示されています。まっすぐの広い道が「音羽通り」。その西側の直線道路も現在もそのまま存在しています。通りの東、西(目白台、小日向台)の台地沿いにそれぞれ「弦巻川」、「音羽川」がありましたが、現存しません(「弦巻川」は、首都高、「音羽川」は道路となっています)。

 「音羽通り」の北から南へ進んでいきます。「音羽通り」は、将軍が伴揃え1000名以上を引き連れて護国寺へ参詣する御成道でした。1丁目から9丁目までありました。
 どっしりとした大きな「講談社」を右手に見て、「大塚警察署前」の信号で右折すると「三丁目坂」。「大塚警察署」そのものは改築中。

    

三丁目坂

 旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。

 文京区教育委員会  昭和53年3月

 坂下を望む。正面は首都高の橋脚。
                          急坂で、首都高をくぐると、右に上っていく。

 坂下に戻り、首都高をくぐり、最初の道(音羽通りの一本西側にある通り)を左折します。江戸時代からの脇道で、当時のまま南北に通じています。
 


 しばらく進み、2本目を右折すると、「鉄砲坂」の上り。

    

鉄砲坂(てっぽうざか)

 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂をいうことで「鉄砲坂」とよばれるようになった。

 文京区教育委員会  平成8年3月

    
                           石垣沿いの急坂。

坂上から東を望む。

 けっこう昔風の趣のある坂道。女子大生がさっさと下って行きました。

    
       「音羽通り」西側の脇道。左の写真は北方向、右は南方向。 



鳥尾坂(とりおざか)

 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町92番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。北側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝をして「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。

 文京区教育委員会  平成9年3月


「鳥尾坂」と刻まれた石柱。

     

 けっこう長い上り坂である「鳥尾坂」を進み、「獨協高校・中学校」のところを左折します。中学生らしい明るい声が響いてきます。坂道を駆け下る元気な子供達。
 住宅街に入り、2本目を右折すると、「佐藤春夫旧居跡」。

    

 佐藤春夫(1892~1964)詩人、小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。旧居は、昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。
 春夫は、明治43年上京、団子坂上の森鴎外の観潮楼向かいに下宿して、慶應義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹、永井荷風らに師事し、詩、小説に多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「純情詩集」(大正10年)「田園の憂鬱」(大正8年)「晶子曼荼羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員、昭和35年、文化勲章受章。
 上京以来、2度ほど区外にでたほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、部y文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。
 京都府知恩院が本墓であるが、電通院にも分骨され、夫人ととも眠る。
 
 文京区教育委員会  昭和63年3月

 現在地にある建物(「佐藤・・」の表札)も外壁がユニークで、異国情緒のある建物です。

 元の道に戻り、右折してしばらく進み、左に曲がって行くと、急な下りの石段になります。ここが「七丁目坂」。一気に「音羽通り」に下って行きます。

    
    上から。                            下から。
   
    
                            坂下から望む。

 「七丁目坂」の説明板はありませんが、旧音羽7丁目と8丁目との間に出る坂なので、そのように呼ばれたようです。この坂にも急な石段。
 石段がある坂道がけっこう多い地域。台地から谷筋への坂はそれだけ急なのでしょう。

 「音羽通り」に出たら、右折します。「目白坂下」の交差点から右折して西方へ上る、広い道路が現在の「目白通り」。その坂が「目白新坂」。

    

 この坂より南にある「目白坂」に対して、明治20年代の半ば頃に新しくつくられた新道の坂なので「目白新坂」というようです。
 この道は「椿坂」ともいわれました。坂の名は「椿山」という旧跡に因んでいますが、地元の人は「新坂」とも呼んでいたようです。坂を上った左側に「椿山荘」(山縣有朋別邸跡地)があり、その先で、「目白坂」(清戸道)と合流します。

この付近の案内図。

 改めて「音羽通り」を振り返る(北の方向)。

 今回の坂道探訪。緑濃き地域あり、女子大あり、高校あり、賑やかな繁華街あり、落ち着いた住宅街あり、と変化に富んだ道筋でした。
 かなりの急坂を自転車を押して上がる人、下る人。坂道に車を駐めて工事にいそしむ人達。講義を終えて軽やかな足取りの女子大生。校庭から華やかな歓声が聞こえてくる男子中学生・・・、日々の生活に密着した雰囲気も感じました。

 「坂道」はますます奥が深いところです。歴史と文化と生活と、・・・。

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