goo blog サービス終了のお知らせ 

おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田原。板橋見附。古稀庵。小田原上水取入口。・・・(箱根路。その1。)

2014-11-09 20:08:28 | 旧東海道
 このところ、「都内の坂道」などついつい回り道ばかりしていて、「旧東海道」編の記録が滞っていました。久々のシリーズ。

 といっても、実際に出かけたのは、10月25日のこと。今日からしばらくその報告をします。

 「小田原駅」(箱根口)から「箱根一里塚(22番目)」、「石畳道」付近まで。
 まだ時期的に紅葉シーズンには早くて(現在はどうでしょうか?)少し彩りに欠けるコースでしたが、気分のいい山道を含めての探索。

 当日は、「JR・小田原駅」に11:20頃到着。「小田原城」を今回も横目で見ながら歩き始めて、「箱根路」の途中で14:30頃。そこから循環バスに乗って「小田急・箱根湯本駅」へ。さらに「小田原」で乗り換えて戻って来ました。

  
 「小田原市立三の丸小学校」。この付近は、『都市景観大賞』を受賞した地域。小学校の校舎も「小田原城」に似つかわしい建物。

「すじかいばしちょう」。
 ここからスタート。

「筋違橋町(すじかいばしちょう)」

 橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。 町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠(はたご)が11軒ほどあった。

 旧東海道筋。昔ながらの風情の店があります。
  

「諸白小路」。

 小田原藩主稲葉正則の時代、この地に上方から杜氏(とうじ:酒をつくる頭または職人)を招いて諸白酒(もろはくしゅ:仕込み用の蒸米も麹米もよく精白したもので醸造した酒)をつくらせたことから、この地名が生まれたといわれているとのこと。

 いよいよ「板橋見附(上方見附)」跡から箱根路に向かいます。その前に、東海道線の高架橋の手前、「早川口」交差点近くの歩道橋脇、「早野歯科医院」そばにあるのは、

「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」。

 明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。 明治41年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗換駅として、この地方の交通に恩恵を与えた。 大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした。

 「Clip & Scrap | 軽便::豆相人車鉄道 - TOY TRAIN」www.toy-train.com/sb/sb.cgi?cid=27 さん、現地踏査の写真も豊富。

 この鉄道に関してはその他にもいろんな方々が興味あるレポートをしております。

 「はまだより・豆相人車鉄道」hamadayori.com/05/zuso.htm

 小田原~熱海間に『豆相人車鉄道』が開通したのは 明治29(1896)年のこと。 ... 鉄道馬車では無理と判断され, また 蒸気機関車を使った軽便鉄道は 開発投資が大きく採算が合わないという理由で, 人車鉄道が適当と ... 乗客の乗った人車を 3人の車丁が押している, 凝ったデザインの石碑である。 豆相人車鉄道. 「豆相人車鉄道」は雨宮啓次郎氏と, ...

 ぜひ探索したい廃線跡です。

豆相人車鉄道について

人車鉄道の歴史
 人車鉄道は明治29年に小田原から熱海までレールの上を人間が押して走る珍しい鉄道として開業しました。その後軽便鉄道になり、人力でなくなりましたが大正12年の関東大震災まで、軽便鉄道として運転されました。丹那トンネルの開通で東海道線が熱海まで通るようになるまで、温泉地への足として利用されました。
 人車軽便鉄道の小田原駅は、お城南通り商店会の中にある早川口歩道橋際の早野歯科医院のところにありました。歩道橋の脇に記念碑がたっています
 往時は料亭や待合どころ・商店も立ち並んでおり、湯河原、伊豆山、熱海などへ行く湯治客等で賑わっていました。湯本方面へも国府津・湯本間に電車が通り、中継地点としても賑わっていました。
 片野屋呉服店の店内に資料とジオラマが展示されています。ぜひご覧ください。

HPより)


「御組長屋(おくみながや)」。

 江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組が住む御組長屋(新宿町組、山角町組、竹花町組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。

バス停「板橋見附」から、JR東海道線をはさんで小田原中心部を望む。

 新幹線の橋脚の手前を右折して進む道が「旧東海道」。分岐点の案内図。
  
                                         かつての「見附」のようす。

 

国道1号(現東海道)からの分岐点。ゆるやかな曲り口。

新幹線の下をくぐると、車もほとんど行き来しないぐっと静かな道筋になります。

 その手前には、小田原大久保氏の氏寺「大久寺」、徳川家光の乳母である春日局が開基した「光円寺」など見所がありますが、省略して先を急ぎます。

  
                              板橋旧道。

「街かど博物館・豆腐」。

 しばらく進み、右に折れて坂道を上ると、「古稀庵」。

  

 「古稀庵」は、明治の元勲山県有朋が明治40年(1907)に構えた別荘。「庭園」がいいらしいですが、「日曜日のみ見学可」なので、残念ながら門前で引き返す。他にも老夫婦がきびすを返して下って行きました。

 古民家が公開されていました。なかなかの趣。

「板橋地蔵尊」脇の旧道。親子連れがのんびりと散歩中。

 しばらく行き、「上板橋」の交差点・信号で、国道1号線に再び合流します。

  
来た道を振り返る。

 国道の左手が開け、「早川」が見えてきます。

 「小田原上水(早川上水)」取入口が眼下に。
 
  

説明板。

小田原用水(早川上水)取水口 

 小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見附門外蓮池に流れ出たもので、道中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。
 この古水道は小田原北条氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。
 その後上水道から下水道と姿をかえ、昭和31年市内電車撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。
 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている。


 小田原北条氏時代に、小田原ではすでに上水道がつくられ、城下での飲用水として使われていた。その「取水口」がこの場所で、「早川」の水を取り入れていた。

  
  遠くに山の中腹を通る「小田原箱根道路」。               箱根の山並み。

 しばらく国道を進みます。

     
         箱根登山鉄道。                 「(日本橋から)87㎞」ポスト。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「板橋地蔵尊」付近。板橋村の集落の北側に沿って流れる用水路が「小田原用水」と思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小久保こ線橋」。西明石・上ヶ池公園の片隅の「トラス橋」。

2014-11-07 20:29:20 | 鉄道遺跡

 神戸に住んでいた知人が亡くなりました。同い年ということもあって、突然の死に驚きました。

 さっそく「告別式」に出かけました。「新神戸」で降りて乗り換えて行けば、くらいに軽く考えていましたが、とんでもない。山陽新幹線「西明石」駅からタクシーの方が便利ですよ、と地元の方から聞いて、そうしましたが、けっこう乗りでがありました。

 さて、お葬式も済んで再び「西明石」駅へとタクシーに乗り、ひょんな話から、「廃線」とか「鉄道遺跡」に興味があるんですよ、行く先々で寄るんです、と話したところ、こういうものがありますよ、と運転手さん。その案内で寄り道しました。それがこれ。

 JR「西明石」駅北西にある「上ヶ池公園」の片隅、広いグランドの脇に置かれた一連のアーチ橋。



 「トラス橋」形式のもの。どこかで見たことがあるような、そう、東京・深川の「八幡橋」(元弾正橋)、零岸島の「南高橋」(元の両国橋)、あるいは横浜・みなとみらい「汽車道」の鉄橋、・・・の雰囲気にそっくりの古めかしさ。

 「説明板」によると、この橋は西明石駅の跨線橋だったものをここに移設したものらしく、元々は明治中期に架けられた九州鉄道の鉄道橋。昭和2年に九州から移設し、跨線橋として平成6年まで使用され、新しい橋の架設に伴いこの公園に移されたとのことでした。



「小久保こ線橋」の歴史 

 西明石の北と南を結ぶ道路としてJR山陽本線上に架けられていた「小久保こ線橋」は橋桁として古い歴史を持ち、百有余年の永い間、その役目を果たしてきた。
 新しい陸橋の新設に伴い、この地に移設し、その歴史をここに刻み、末永く保存することとした。

 この鉄橋は、明治23年(1890)、当時の九州鉄道株式会社(現、鹿児島本線等)が鉄道橋として、ドイツのハーコート社に発注、技師ヘルマン・ルムシェッテル(1844―1918)の指導の下で建設された70連余りのトラス桁の一つである。
 昭和の初め現西明石駅構内に鉄道省の機関区が設置されるに伴い、小久保・鳥羽から藤江・松江に通じる林道の代替道路が作られた。
 その際、鉄道橋として使われていたトラス桁を転用して昭和2年(1927)に延長65mの「小久保こ線橋」が建設された。
 その後、戦中、戦後の激動の時代を経て、昭和36年(1961)、鷹取・西明石間の複々線化に伴い、こ線橋は88mに延伸された。
 そして、平成6年(1994)新こ線橋(西明石陸橋)の完成によって永い勤めを終えることになった。
 幾星霜の風雪に耐えて、その役目を終えたこの「こ線橋」は今、終生の地となるここ西明石・上ケ池公園で人々の憩う姿を静かに見守っている。
                       
                 平成7年3月      明石市

説明板からの「小久保こ線橋」。
    
トラス橋

 鉄の部材同士が自由に回転できる状態(ピン結合)にしたものを三角形状に組み立てた橋のこと。
 接続部にかかる負担を、水平、斜め、鉛直に分解される為、負担がかかっても隣接する部材に負担をかけない。故に三角形状に組み立てるトラス構造は安定性があり、強い構造といえる。
 さらに各部材に働く応力は、上弦材(合掌部)には圧縮力が働き、下弦材(梁部)には引張力が働く。支点に近いほど働く力は大きい。 下弦材(梁部)の中央部ほど、引張力は大きいが、斜め骨組材にかかる荷重は中央部ほど小さいというのが特徴。

HPより)。

 また、この橋桁の構造は、「ボウストリングトラス」とよばれるものだそうだ。

 ボウストリングトラス (Bowstring truss) とは、上弦と下弦がそれぞれ弓(ボウ)と弦(ストリング)のような形状となっているもの。
 日本では、1890年代にドイツのハーコート製のプレハブ式のものが70連ほど導入された。プレハブ式であったのは、組み立てに簡便なことを狙ったもので、そのためにピントラス構造であった(ドイツ国内では剛結合が一般的であった)。九州鉄道は47連を導入したが、その後、車両の大型化に伴い架け替えの必要が生じた。架け替えの理由は部材の劣化ではなく、単に設計荷重が少ないためだったので、それでもよい道路橋などに転用された。
(以上、「Wikipedia」より)

 「プレハブ式」というのが興味深い。三角形を基本構造の一単位として、それらをつなぎ合わせていくという発想。

 したがって、各部の接合にボルトとピンを多様しているのが特徴。

  

  
 説明板とピンの展示。

ピントラス橋梁

 三角形の構造体を一単位としたトラス橋では、連結部が自由に回転しなければならない。この条件を満たす為、貫通ピンの構造にした橋梁をピントラス橋梁という。

  

 じっくり細部まで観察したかったですが、新幹線の時間も迫ってきて、ここまで。

  
 振り返ると、かつての姿のように鉄道線路の上を歩いているような雰囲気になりました。

「上ヶ池公園」入口。
 
「元弾正橋」(都内最古。国産の鉄で作られた最初のもの)。

「汽車道・第一橋梁」(アメリカ製。「第三橋梁」はイギリス製)。

「南高橋」(旧「両国橋」の一部を再利用、車道として今も現役)。

 なお、「小久保こ線橋」と同じ、ドイツのハーコート製の橋として現存し、日本で最古の鉄橋とされるのが、大阪にある「緑地西橋」。

 緑地西橋(りょくちにしばし)。
 大阪府大阪市鶴見区にある大阪市道に架かる道路橋。全長36.7mのアーチ橋であり、日本現存最古の鉄橋と言われている。
 もともとは、長堀川に架かっていた鉄橋の旧心斎橋であり、旧心斎橋より撤去された後、途中3ヵ所にて橋梁の移設・撤去を繰り返した後、現在地に移設されたものである。現在の本橋梁では、旧心斎橋からボウストリングトラス桁の主構のみを転用し保存している。
 1873年(明治6年)にドイツより輸入されたドイツ・ハーコート(Harkort'sche Fabrik)製である。また、トラスの部材(錬鉄製)をボルトで締めて連結組立てを行う、プレハブ式であるのが特徴である。なお、橋床にあたる部分には鋼桁橋が架かっており、トラス桁自体が支える構造にはなっていない。
(以上、「Wikipedia」より)

 この「小久保こ線橋」は、公園内の散策路の一部として平地に設置され、橋としての用途はない。しかし、初期の日本の鉄道を支え、その後もこうして市民に結びついた橋として100年以上も現役を勤めているのはすばらしいことです。

明石大橋。但し、駅のポスター。

 新幹線の西明石駅は一時間に一本。

閑散としたホーム。

  
 猛スピードで過ぎ去る下り線。                 一瞬の出来事。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲行き怪しい「滄浪泉園」。大雨の「野川」。小雨の「近藤勇」。(じじばばがゆく。「はけ」編。)

2014-11-06 20:11:30 | じじばばがゆく

 久々に昔の職場の同僚+近しかった方々。

 地元の方の案内で「野川」散策。あいにくの雨でした。「武蔵小金井」駅集合、「龍源寺」解散。

 昭和一ケタから還暦未満まで。多士済々。

 国分寺崖線沿いの散策。この段丘を地元では「はけ」というらしい。けっして「はげ」ではない! なにしろこの「はけ」、立川市の北東から世田谷区の野毛町まで続く、のだそうだ。

 11月1日(土)午前9時30分「武蔵小金井駅」改札口に集合。

 電車を降りると、前をあるく女性。後ろ姿がどうもあの方ではないか。ペットボトルをむりやりポケットに突っ込んだ着古したジャンバーに、よたよたした足取り。そっとしらんふりしました。すると、エスカレータに乗っていた老人。小走りでトイレに向かう。この方にも見覚えが。トイレに入って出るのを待って、入りました。

 どういうメンバーが集まっているのか、改札口を出る前に遠目で。天気も怪しいし、膝の調子もよくないし・・・、メンバーによっては・・・、そんな小生のようすをすぐに見つかってしまいました。ま、いいか。

 最初に訪ねたところは、「滄浪泉園」。この「ソウロウ」という熟語が出てこない、けっして「候」でも「早老」でも「早漏」でもない! 由緒正しい「深山の趣そのままの庭園」(惹句)でした。
 


 元々は、明治・大正期の三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任した「波多野承五郎(雅号・古渓)」という方の別荘だった、とか。
 人の手に移って幾星霜。宅地化の波に洗われて、当時の3分の1の広さに。その後もマンション建設計画が起き、存在が危ぶまれた。そうした中、1977(昭和52)年、市民の保存の声を受けて、東京都が買収し、自然緑地として残されることになったそうです。
 
 「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」。さすが犬養毅の命名のことだけはあります。

アップダウンもあって、緑豊か。

  
 あいにくの雨、さらに明るさがなくて、携帯写真ではどうも写りがよくありません。 

 しばらく歩いて、「野川」へ。道すがら、この付近のおうちの品評会。蜜柑や栗や柿や外車と、右見て左見て、あれこれおしゃべり。土曜の朝、まだまだ静かな住宅街。さぞかしうるさかったじじばば一行でした。



  
「前原小学校」脇、野川の旧水路。                 現在の野川との合流地点。

 「都立武蔵野公園」に到着。

 広場ではなにやらロックコンサートが。

  
広々とした緑とせせらぎ。                     はけ(国分寺崖線)。

  
カルガモご一行様。                        西武多摩川線。
 
 「西武線」の橋脚を過ぎると、「都立野川公園」。ここも広大な敷地の公園。

雨に煙る風景の格別さI!
 でも、足下はぐちょぐちょ。

薄いピンクの花が満開。「ジュウガツザクラ」。

  
「はけ」からの湧き水がこんこんと。                         概念図。

  

野川公園全景。

 何か気づきませんか? そう、ここはもともと「ゴルフ場」。「国際基督教大学(ICU)」のゴルフ場でした。1974(昭和49)年に買収し、1980(昭和55)年に開園。アップダウンと木々の配置がそのまま残されているようです。

「ゴルフ場」のある頃。
現在。(「今昔マップ」より)

イチョウ。足下には銀杏がたくさん。

 「野川公園」を出て、「人見街道」を左に曲がると、お蕎麦屋「 御狩野そば (みかりのそば)」さん。

 「多磨霊園」が近いこともあって、法事での利用客が多いようです。午後1時前でした。
 お酒を飲み、あれこれつまみを頼み、お蕎麦を食べて、おしゃべりをして、ごちそうさま。見かけによらず、皆さん、お元気でした。
 そして、少し歩いて、「龍源寺」へ。
 
  
        「近藤勇」の胸像。                       お墓。

 こうしてバスに揺られて「三鷹駅」まで戻って来ました。
 ほどよい疲れ具合(飲み具合)でした。またの日を楽しみに。
 これから「女子会」を中野で行うんだと降りていった方々の元気さに、男性陣は・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御殿坂。物見塚。上野戦争。・・・(根津・谷中の坂。その4。)

2014-11-04 18:28:36 | 都内の坂めぐり

 そろそろ夕刻。小生の携帯でははっきりとした写真が撮りにくくなったので、JR「日暮里駅」へ。

「御殿坂」。

 この坂も、「七面坂」と引き続き、台東区と荒川区との境界にあり、坂の上はJR日暮里駅北口です。(右が「台東区」、左が「荒川区」。)

  
   「台東区」側の標識。       「荒川区」側の標識。

御殿坂 (「台東区」の解説文)

 文政十二年(一八二九)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志科」には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

 また、「荒川区」の説明文では、「日暮里駅方面へ下る坂。江戸女台から用いられていた故障である。・・・当時の絵図などから
、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがわれる。・・・」とある。

 ここで注目すべきは、「日暮里駅方面に下る坂」という点。

 「台東区」の説明文にもあるように、もともと上野台地の東側を下る坂としてあったものが、JR線の敷設や「日暮里駅」の開設等で消滅してしまい、台地上にその一部が残っていると考えられる。
 なお、「日暮里駅」の跨線橋の橋の名は、「下御隠殿橋」。もちろん、江戸時代当時からここに橋があったわけではない。

1880年(明治13年)頃のようす(前回掲示の図)。

 ○が「御殿坂」。A(「八面坂」)からB(「芋坂」)を結んでいたようだ。

黒い線がJR線、日暮里駅。
 ほぼ消失している(戦前までは「日暮里駅」の西側に一部残っていたようだ)。

 この坂の周囲にはまだまだ見所が多い。そこで、後日再訪したので、以下にそれを掲載します。

 「本行寺」(月見寺)の境内には太田道灌の「物見塚」に関わるものがあります。

  

「荒川区指定文化財/道灌丘碑」。

 太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
 寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。
 この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。

「道灌丘之碑」。

「小林一茶」句碑。

 陽炎や 道灌どのの 物見塚

 その先の「経王寺」には、彰義隊にまつわるものがあります。

  
    赤い○が弾痕。                     
赤い○のところ。何カ所か残っている。

  
「経王寺 山門」碑。                 「門番所」。

 明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
 慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。

HPより。

上野戦争(以下、「Wikipedia」による)

 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。

 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。

 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。

 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

上野戦跡

 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
 戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六角堂。七面坂。富士見坂。地蔵坂。夕やけだんだん。・・・(根津・谷中の坂。その3。)

2014-11-03 20:37:26 | 都内の坂めぐり

 「七面坂」に向かう途中に、「岡倉天心記念公園」があります。

  
「岡倉天心宅跡 旧前期日本美術院跡」碑。

 「岡倉天心記念公園」は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている、とのこと。

「六角堂」。

 この場所に建てられた美術院は明治31年(1898)9月に竣工した木造二階建て。明治39年(1906)12月に茨城県五浦に移るまでここが活動の拠点となっていた。

  

 公衆トイレも六角堂を模したもの、他にも公園内には、「六角」(形)へのこだわりが随所にある、らしい。じっくり見てくればよかった!

 「五浦」の「六角堂」は、2011(平成23)年3月の「東日本大震災」の津波によって流失してしまったことが話題になりました。
  
流失直後。                          再建後。      
(「」HPより)

 「宗林寺」を過ぎると、右手に坂があります。

   
 
 この坂が、「台東区」と「荒川区」の区界になっています。左の写真で、右が「台東区」、左が「荒川区」。

七面坂

御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。

    荒川区教育委員会

坂上から望む。 

「諏訪台通り」を北に向かうと、「富士見坂」。

 
 
富士見坂

 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。

 荒川区教育委員会

 関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり

 平成16年11月
 国土交通省関東地方整備局 



 が、現在では富士山は見ることができなくなってしまいました。

   

 「不忍通り」沿いのマンション建設のため、この「富士見坂」からは見ることが出来なくなってしまったのです。

以下、「今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day」
「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.」HPより。

 日暮里富士見坂から富士山を望むことができなくなって16ヶ月目。
 坂上には、いまだ「あっちに見えるはず…」と西を指さす人が絶えない。
 いま、富士見坂から富士山への通り道の途上に黒いビルが見える。生和コーポレーションが建設した「福信館」がみえる。
 こうして、名前を告げることを非難する人もあると思うが、名前を伏せれば、話し合いの場をもうけると文京区は私たちに約束したが、残念ながら反故にされてしまった。同じように企業も私たちを脅し、そして約束は最後まで果たされなかった。
 2011年12月、世界遺産の諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を歴史的な眺望遺産としてパリ総会で決議した。
 翌2012年5月、その保全について荒川区、文京区、新宿区、豊島区、そして東京都、および新大久保に高層ビルの建設を予定していた住友不動産に対して勧告するとともに、保全を可能にするための眺望ライン作成に協力することを申し出た。
・・・

2014年10月16日 初冠雪の「すきま富士」。

 今朝、日暮里富士見坂近くから、初冠雪の富士山を望むことができました。写真をよく見ると、山頂部分もビルのはざまに見えています。せめて、この風景を子どもたちに残したいものです。日暮里富士見坂からの富士山が復活する日まで。


 以前、富士山の左肩部分を新宿区内に建設されたビルによって奪われ、今回は、右肩を奪われてすっかり見えなくなったようです。ただ、上の写真のように、この坂の近くから見えるところがあるようですが。

 

 「富士見坂」は、富士山が見えなくても夕陽の光景が美しい坂道ですが、それに満足せず、「富士山」復活にかける心意気を強く感じます。



 諏訪台通りを少し進み、「諏方神社」の脇を入ると、「地蔵坂」。

 
                   坂の先はJR「西日暮里」駅に向かう地下道。
  

地蔵坂

 この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
    荒川区教育委員会

 「地蔵坂」から戻ってくる頃には、すっかり夕焼け。

  
「富士見坂」の案内板。                   夕焼けに染まる「富士見坂」。

 「七面坂」のすぐ北側は「夕やけだんだん」、谷中銀座の道筋。うろうろしているうちに、夕陽がまぶしくなってきました。

「七面坂」。

  
                        (別の日に撮影)


1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ↓が「富士見坂」、○が「地蔵坂」、中央の東西の道が「八面坂」・「御殿坂」(「夕かけだんだん」付近)と思われる。←が現在のJR「西日暮里」駅付近。
 なお、右下の曲がりくねった道が「芋坂」。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三崎(さんさき)坂。真島坂。築地塀。蛍坂。・・・(根津・谷中の坂。その2。)

2014-11-02 21:09:58 | 都内の坂めぐり

 「へび道=旧藍染川」は「三崎坂」を越えて北にある「よみせ通り」へと続きます。
 「三崎坂」で「藍染川」に架かっていた橋が「枇杷橋」。
「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」碑。

 通りの向かいにあるお蕎麦屋さんが「大島屋」。

 「三崎坂」と「不忍通り」をはさんで相対している坂が、「団子坂」。
  
                                     ↓が「団子坂」。


  

三崎坂
 「三崎」という地名の由来は諸説あるが、駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名は「首ふり坂」といい、30年ほど以前、このさかの近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。


大正中期のようす(「今昔マップ」より)。↓が「三崎坂」。駒込、田端、谷中の地名が記されている。この付近が、三つの高台に囲まれた低地であることがわかる。
現在。

  
 「三崎坂」の途中にある「台東区立谷中小」。寺町らしい雰囲気の建物。

 「谷中小」を右折した先にあるのが「真島坂」。
 
坂上から。                          坂下から。
 再び、「三崎坂」に戻ります。

「笠森おせん・鈴木春信の碑」(「大円寺」内)。

鈴木春信「お仙茶屋」

 笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
 1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。
 1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた。
 1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。
 現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある

(以上、錦絵を含め、「Wikipedia」より)

  

 お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。
 荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。
 女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡る
  もの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が
錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。
今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こゝに阿仙の碑
を建つ。
 時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃

 五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。

 平成八年七月
       台東区教育委員会



 全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。

(「山岡鉄舟・三遊亭圓朝の墓【全生庵】」|TAITOおでかけナビ」より)

「三崎坂」にはけっこう昔を偲ばせる建物が残っています。

    

 1995年(平成7年)に「台東区まちかど景観コンクール」において「まちかど賞」に選ばれた建物。

下町まちしるべ 旧谷中初音町二丁目」

 初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治2年(1869)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治4年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治24年のことである。
 谷中初音町二丁目は、元禄17年(1704)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。

 実に風情のある町名です。

「観音寺」。
 赤穂浪士ゆかりのお寺。和尚が赤穂義士のうちの二名の異母兄弟であった、という。

 このお寺の南面にある「築地塀(ついじべい)」が目を引きます。

  

1992年(平成4年)に「台東区まちかど賞」を受賞した「観音寺」の築地塀(長さは約38m、高さ約2m)。関東大震災で一部が崩壊したが、修復を重ねて往事の姿を留めている。瓦と土を交互に積み重ねた土塀に屋根瓦を葺いた作り。

 瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀を築地塀と言います。観音寺の築地塀は屋根瓦を葺いた珍しい造りになっています。平成4年度、台東区まちかど景観コンクールで「まちかど賞」に選ばれています
 土塀といえば、信長塀や太閤塀など古い築地塀がいくつも残っています。「築地塀」とは土で作られた塀のことを指し、大きなくくりでは版築で作った塀もその他の土で作った塀も築地塀(ついじべい)と呼んでいます。)
 築地塀の中でも土と瓦を交互に積み固めた練り塀が誰でも見覚えがあると思います。
 本来は土の塀を丈夫にするため、瓦を土の間に差し込んで強度を出し、土が早く締め固まるようにという目的がありましたが、(本来の練り塀は上塗りで瓦が見えるのを隠してしまいます。)それを見た目の面白さと瓦が雨水から土を守るという点で活かされたものです。
 当社の近くの谷中 観音寺にも練り塀が残されていて平成4年にまちかど賞を受賞しています。

(以上、「」HPより)

 その先を進むと、行き止まり。右に曲がると狭く急な坂になります。
「蛍坂」。

 右側が高い囲い、左がフェンス、となっていて、圧迫感がある坂道。

左側は急な崖。

  

蛍坂

江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。「御府内備考」は「宗林寺の辺も蛍坂といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂は蛍坂の別名。三崎坂とと七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。

 
「標識」から上を見る。                    左に曲がって見上げる。 

崖上の森の向こうが「蛍坂」にあたる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺坂。三浦坂。赤字坂。へび道。・・・(根津・谷中の坂。その1。)

2014-11-01 13:13:55 | 都内の坂めぐり
 根津駅から西日暮里駅までのコース。下町探索コース「谷根千」ともかぶっています。以前、「藍染川(谷田川)」流路跡の探索で歩いたところとも重なりますが、今回は、「坂道」に徹底して。

 その前に、「根津」ということで、以前から気になっていた「建物」に向かいます。「はん亭根津本店」。木造三階建て。
 「不忍通り」に面して「茶房」、裏に回ると「串揚げ」のお店。

  

 もともとこうしたお店として長年やっていたわけではありません。そのへんのいきさつについて、

 『歴史ある建物の活かし方』出版記念シンポジウム・第5回歴史・文化のまちづくりセミナー記録
 1999年7月17日に東京大学工学部1号館第15教室で行なわれた『歴史ある建物の活かし方』(学芸出版社刊)出版記念シンポジウムでのご主人のお話が掲載されいます。

はん亭の誕生

 見出しに建築再生物語と書いてあります。「根津の大通りの一本裏に木造3階建ての串揚げ屋があって繁盛している。紺の暖簾に木目の洗い出された板戸。盛況のこの店のご主人高須治雄さんに、お店をはじめるまでの話を聞く」と書いてあって、ここからが私の語り口なのですけれども、実は森さんが雰囲気を出すために私のことをべらんめえ調で書いておりますが、決して普段そのようなことはなく、大変上品な喋りしかできない男でございます。私は35歳で脱サラして、上野の本牧亭の真裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやっていました。店は少しずつうまくやっていましたが、7、8年のうちに周辺の環境が悪くなって、ピンクサロンが客引きをするので、まともな客が道を歩けなくなった。その雰囲気がいやで、夜、店を開けるのが毎晩うっとうしかった。

 その頃、根津にある弥生会館で飲食店の会合があり、根津の裏通りをぶらぶら歩いてふと見るとこの木造3階屋に出会ったんです。湯島に木造3階建てがあるのは知っていましたけど、根津のこんなところにこんな建物があるとは思いもよりませんでした。それから取りつかれて、どんな人が住んでいるのかななんて想像して何回も見にきました。そして、ついに区役所に調べに行ったらある運送会社の独身寮だってことがわかったんです。なにも独身寮ならこの建物である必要はないと思い込み、もし売る時は僕に声をかけてほしいと言ったんです。あんなボロ家を買いにきた物好きがいると、向こうも驚いたらしいです。

 そのうち景気も悪くなって、向こうは売ろうかという話になりました。確かその間約3年かかりました。そりゃあ、ああいう建物は残す義務があるとか、うまく活用してみせると豪語した手前、売ってもよいと言われるとかえってあわてました。条件もわからない、中も見たことがない、買ってすぐ壊れちゃうんじゃないか、そこで上野の店の常連で芸大の建築科を出た浦さんに調べてもらいました。そしたら多少柱がゆがんでいるとか、3階で鉛筆をころがすとコロコロ片隅に転がる程度のことはありましたが、基礎、柱から構造もビクともしない、あと数十年は持つって太鼓判。こうなりゃやるべきだと思いました。

 さて、いくらかかるのか。お金もないし、一時は十条の自宅と取りかえっこしないかという大胆な提案までしたんですが、とにかく価値観の違いがありますから、こちらは垂涎の建物でも、向こうにしてみりゃとっくに減価償却の済んでるボロ家で、しかも借地ってことで、提示された価格はまあ手に負えるものでした。その当時、根津のこんなところで商売になるのか考えてもみなかったことで、とにかく両親含めて6人家族、いまどきマンション買うより広くて安いや、と家族を説得し、庭付きの家を処分して、この根津の町なかに引っ越しました。これがおっちょこちょいの家族で、この3階屋を見上げて「へえ、かっこいいや」というわけですよ。

建物を改修する

 次は改造の手配です。運送屋の季節労働者用の寮ですから、家の荒れはてようといったら。ベニヤで仕切って外はプラスティックの生子板を張ってあって、見るも無残。いい大工を紹介してもらったら、「こりゃ金食い虫だぜ。いくらかかるかわかんねえや」って言われました。でもこっちは本物の部材で再生させたいとすごい情熱でしたから。大工さんも一徹な人で、よくわかった、といったらあとはきかないことばかり。よくケンカもしました。1階の店の真中においてある大テーブルも、ある家具屋で静岡の若い作家の作品を気に入って、金がないので直接交渉しようと、ちょっと梱包の箱が店にあったのを密かにメモって静岡までいったりしました。それでもここはあくまでも住まい。1階はわが家のダイニングキッチンのつもりでした。そして上野の店の客で、もう少し静かで変わった所で食べたいという人がいたら、地下鉄で一つ乗って来てもらって、その間に私が自転車に材料積んで先回りして、ゆっくりおもてなししましょうと、そんなことを考えてました。だから最初は椅子も12しか入れなかった。

 ところが工事中から、何やってるんですかと見にくる人がひきも切らない。説明すると、そりゃオープンしたら一度来たいもんだ、との返事です。完成したときに、懇意の染織家に暖簾を頼み、今までの「くし一」から半歩前に進みたいと、「はん亭」という屋号をつけました。暖簾をあげると、毎晩押すな押すなの大盛況。湯島の店は若いのにまかせて、あわてて椅子を増やしました。そのうち、宴会がしたい、座敷はないかというので、私たちのテレビもタンスもある居間に通すことになりました。そのうち両親があいついで亡くなり、我々は近くに借家をかりて、ここは全面的に店になっちゃいました。

大正時代からの歴史

 この家を最初に建てた人のご紹介が遅れましたが、そもそもこの家は三田さんという方が経営する下駄の爪皮屋だったんです。ま、根津ではちっとは知られた大店で、建築は大正初期だということです。息子さんに店のあとを継がせようと東京商科大、今の一橋大学に入れたんですけれども音楽が好きで、後で著名な音楽家になられたそうです。通りにある風貴堂さんというのが茶道具を扱う店なんですが、その間にもう一軒ひっそりと暮らす家があります。ところがその人があるとき越すことになりました。その時に大家の三田さんからぜひ借りてくれないかという話がありました。私は店としては3階建て部分だけで十分だったんですが、また住まいにすればいいやと心を決めて借りることにしました。そしてその借りた場所に立派な土蔵があるなんて知りませんでした。また、建築家の浦さんご夫妻、前の大工さんにお願いしてすっかりよみがえらせてもらいました。今では土蔵の中が一番人気があるんですよ。座敷で串揚げというのは珍しいんです。揚げたてのアツアツを食べていただこうと思うと人手がうんとかかる。お客さん80人に従業員15人もいます。この根津ってのは谷底の職人町ですよね、なんとなく温かく、しみじみするような所です。この3階屋に初めて上がったとき、床の間のケヤキの板がすばらしかったですよ。想像しましたね、きっとここの主人が、近所の長屋の八つぁん熊さんを呼んで花見だ月見だと一杯やったんじゃないかと、上野の山もよく見えたでしょう。両国の花火もきっと見えたことでしょう。でもねえ、越してきたその冬の寒さったらなかったです。すきま風で石油ストーブも怖くて使えなかったし。でも、かつて三田さんもここで冬の寒い日に火鉢で暖をとっていたのかな、なんて考えたら楽しかったですよ。
 森さんは「根津や谷中の民家はちょっとやそっとでは残らない。地価が高く相続税、固定資産税の負担の重い今日の東京で、ただ古い家に住んでいるだけでは残すのは難しい。建物の風情が店に付加価値をつけ、料理にプラスして客を魅きつける店として、『はん亭』がある」と、このように書いてありました。森さんは、私が20年間にも及ぶこの建物との関わり合いを端的に私の言葉で表現してくれたと思います。私は常々、店の従業員にこの店が繁盛しているのは我々の作る料理が人一倍、並外れておいしいわけではなくて、きっと日中鉄筋コンクリートの塊の中で仕事をしてきたサラリーマンの人たちが、この古い木造家屋で食事をしたり、飲んだりすることでやはりその空気と雰囲気の味わいを感じるのだろうと、だからこの建物をもっと大切に扱わなければならないと申しております。この度、この建物が三船先生などのご尽力によって登録文化財ということになりました。名誉であるとともにこの建物が文化的な財産なのですから、もっとこれからも大切に維持・保存していかなければならないという私自身への戒めの印として、21世紀にいつまでもいい形で残せるように頑張っていきたいと思います

(以上「www.gakugei-pub.jp/kanren/rekisi/semi05/02-3.htm」より引用)

 上の話にもあるように、国の「登録有形文化財」に指定されています。

 機会があったら、改めて訪ねてみようと思っています。さて確認したので、本来の目的に。「谷中」は、坂の町。上野台地と西の本郷台地、その間には「藍染川」流域、東は台地のはずれ、と、どこに向かうにも坂を上り下りしなければなりません。

 「根津一丁目」交差点。「不忍通り」と「言問通り」がクロスする所。
「言問通り」。

  
 西が「弥生坂」。                      東が「善光寺坂」。

坂の途中にあった「下町みちしるべ 旧谷中坂町」。

 もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688~1704)に寛永寺領となるが町家が形成されるにつれて、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉村寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治2年(1869)谷中坂町と命名された。さらに同24年三方路と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。
 町名は町の中央に坂があったことにちなんで名付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。・・・

 しばらく上って左折し、「旧藍染川流路跡」の道路(この道は、文京区と台東区の区界。かつてその区界を源流付近から「不忍池」まで探索し、blogにUpしました)を北西に進み、「三浦坂」方向へ。

 右折すると、



三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

平成4年11月
         台東区教育委員会

 坂の途中にあったお店。

 猫グッズを扱う? 猫好きにはちょっと興味をもちましたが、素通り。

坂の上から西方を望む。左手はお寺がたくさん。

 「三浦坂」を上り、左に二度曲がると、「大名時計博物館」。

 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。
(以上、「Wikipedia」より。)

 大ヒットした、NHKの連続テレビ小説(2013年)「あまちゃん」で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われた、とのこと。

  

 その先を右に曲がると、「赤字坂」。

  
石段の下の道路。                      坂の途中から見上げる。

 「赤字坂」はそのネーミングのユニークさからタモリさんをはじめ、大勢の人が取り上げています。いずれも、曰く因縁の説明にはそれほど相違点はないようですが。

赤字坂(明治坂)

 坂上に明治の大財閥、渡辺家の屋敷があった。初代が明石屋治右衛門だったので略して「明治(あかぢ)」だ。九代目が東京渡辺銀行を設立したが、昭和2年の金融恐慌で破産、姉妹行のあかぢ貯蓄銀行も同時に閉鎖し、破綻した。根津や千駄木、谷中では損害を被った人が続出し、人々は皮肉って「赤字坂」といった。銀行によく「あかじ」とつけたものだ。
 実は東京渡辺銀行の破産は時の片岡大蔵大臣の失言によるものだった。

(以上、「台東区の坂-3: 坂道散歩」8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2005/09/post_950e.htmlから引用させてもらいました。

 坂道を下ると、さきほどの旧藍染川流路跡(区界)。
 
旧藍染川流路跡から望む。              坂の途中にある「案内図」。南北が正反対。

右が「台東区」、左が「文京区」。

 いよいよ「へび道」にさしかかります。曲がりくねり、道幅も狭くなります。

「交通標識」にも「蛇行あり」という言葉が(←)。

  
右が台東区、左が文京区(だと思います。振り向いて撮ったとすれば、ちょっと自信がありません)。

  
 「三崎坂」との合流も間近。                 振り返って望む。

 左の写真では右が台東区、左が文京区。右の写真では右が文京区、左が台東区、となります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする