おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その4。堂々たる長屋門。吉田用水。そして、沖縄本土復帰50周年。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-15 19:47:01 | 日光東往還

                 先に進みます。大きなお屋敷が目立つ。

堂々たる長屋門。

       

 「五三の桐」の紋が。

広い敷地のおうち。

「作ノ谷」交差点。

ここにも大きな釜。

交差点先の右手に武者窓付きの大きな長屋門。

      

畑の向こうに筑波山。

遠く左には上州の山々。

結城の市街地に近づきます。

「吉田用水」が右手から近づいてきます。

吉田用水

享保元年(1716 年)徳川吉宗が将軍となり、政治立て直しのための改革が開始され享保 7 年には改革が本格化した。こうしたなかで、新田開発の奨励策と治水が打ち出され、3 千町歩に及ぶ飯沼新田(現茨城県坂東市)が開発された。その新田のために新たな用水を開削することになったのが、吉田用水である。
しかし、用水の取水口にあたる農村(絹板村、花田村、延島村、延島新田村)に大きな負担を残した。用水を維持管理するよう幕府から命ぜられ、増水のたびに堰が壊れるなど4ケ村の財政を圧迫したからだ。また、日光街道の助郷役は免除されるなど、重要な役を担っていた。
 吉田用水は、全長 56kmに及び、流域の村々へ恵をもたらした。取水口付近の農村の払った犠牲は少なくなかったが、それでも、大きな事故や紛争もなく用水が維持されたのは幕府の統制もさることながら周辺 88 ケ村と地元の村々が協力し
てことにあたったことからだろう。なお、現在は、真岡市堀込地内の用水路に堰を設けそこから取水しており、鬼怒川の地下を経て吉田用水に取り入れている。
※林氏の説明資料から抜粋して掲載しています。(「下野市」HPより)

※現在の下野市付近で取水し、結城市内を通り、下流は坂東市に至る全長約60㎞。受益地:茨城県結城市、八千代町、古河市、下妻市、常総市、坂東市

城南小北交差点で国道50号線を横切り、吉田用水沿いに進んだあと、結城駅に向かいます。

来た道を振り返る。

 

吉田用水。

歩道橋から来た道を振り返る。

結城宿方向。

宿内は次回にし、ここから駅に向かいます。

水戸線の踏切が前方に。

結城駅南口。

次回からは鉄道を利用することで済みそうです。

そして、今日5月15日は、沖縄本土復帰50周年。

勤め始めた頃の出来事。沖縄出身の同僚に、皆で、よかった! よかったなあ! と話したとき、一瞬、苦々しい表情になったことを覚えています。手放しで喜ぶことではない、と。

その後の経過はどうだったでしょうか? 復帰以後、今も国土の0.6%に過ぎない沖縄に、米軍関係施設が70%も集中している現実。そこから生じるさまざまな矛盾・問題。

本土にいる我々は、沖縄が今も置かれて厳しい現実にどれほど関心があるでしょうか? 

むしろ、ロシアのウクライナ侵攻を契機に、ますます防衛力増強、敵基地先制攻撃(うまく言い逃れていますが)・・・

米軍と一体となっての防衛体制強化の動きに、沖縄の未来はどうなっていくのか、いよいよ真剣に考えなければいけない、と。

来月中旬、かつての同僚たちが辺野古座り込み支援に行きます。せめて支援カンパだけでも、と。

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その3。武井宿。長屋門。戊辰戦争。官軍兵士の墓。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-14 21:26:26 | 日光東往還

               緩やかな曲がる道(曲尺手? )がかつての「武井宿」への入口?

                    この付近の今昔。

                                                                                                                             

1880年代のようす。道筋は変わらない。              2010年代のようす。今も昔も畑作地帯が広がる。

遠くに筑波山。

    

戊辰戦争での官軍戦死者のお墓。

1868年(明治元年)4月16日、江川地内で新政府軍(結城藩・館林・須坂隊)と旧幕府軍の戦いがあり、戦死した官軍(明治新政府軍・館林藩)兵士の墓。

1年5カ月にわたる内乱、戊辰戦争
慶応4年=明治元(1868)年の干支である「戊辰」に因んで名づけられた一連の戦いは、瓦解した旧江戸幕府(徳川政権)を
依然支持する旧幕府軍と、それを鎮撫する明治新政府軍が激戦を繰り広げた内乱です。
 戦争の発端となった鳥羽伏見の戦い、江戸上野寛永寺山内での彰義隊の戦い(上野戦争)、白虎隊の悲劇を生んだ会津藩の戦い(会津戦争)、会津藩救済を目指した奥羽越列藩同盟の戦い、蝦夷地に榎本武揚を中心に共和国を樹立した箱館政府の戦い(箱館戦争)などが有名ですが、戦線が東北・蝦夷地(北海道)へと拡大するなか、古河市域の近郊で両軍の激戦がおこなわれたことは、あまり知られていません。

 ここで、以降の戊辰戦争で旧幕府陸軍の中心的役割をはたす人物が登場します。名は歩兵奉行・大鳥圭介。旧幕府陸軍の最高幹部6人の内のひとりで、伝習隊を率いていました。

江戸城の無血開城が行われる慶応4年4月11日の夜明け前、大鳥圭介は伝習隊第一大隊・第二大隊を率いて、江戸を脱走、向島から市川方面へ向かいました。伝習隊とは、幕府が招聘したフランス軍事顧問団の直接指導を受けた旧幕府陸軍の精鋭部隊で、装備も当時最新鋭、号令に一部フランス語が用いられるなど、後発の諸隊のモデル隊でした。雨が降りしきる翌12日、恭順を拒否し、江戸を脱走した諸隊も、続々と下総国府台に集結。その中には、以後、大鳥と行動をともにする新撰組副局長土方歳三の姿もありました。評議の結果、大鳥を総督に選んだ旧幕府軍は、大鳥本隊と土方支隊に分かれて進軍、当面の目標地を日光としました。大鳥本隊は山崎・船形(以上、野田市)・莚打・逆井(以上、坂東市)を経て、15日に諸川町に宿泊。また、同日には、大鳥とは合流せず、別行動中の草風隊・貫義隊・凌霜隊も止宿していた磯部村勝願寺を発ち、仁連町へ行軍、宿泊します。この時の、諸川町の様子を「今八ツ半時頃公辺御人数江戸脱走之方ニ凡六百四五拾人
船形御出立之由追々夜ニ入る迄に着宿方一同御宿ニ相成」と、また、仁連町も「草風隊弐百人、貫義隊弐百人、伝習隊、短撒兵隊共宿付相成候由、右宿割込み不相成内本陣并外宿内者不残割込相成、東禅寺・妙厳寺其外大人数ニ付村役人手廻
兼」と、町役人が自身の日記に記しており、宿場中に溢れる歩兵たちの宿割を巡る混乱ぶりがうかがえます。

・・・

4月16日午前、南下中の(明治新政府軍の)平川支隊は小山宿を過ぎた付近で、結城救援のため急反転したところを、草風隊・貫義隊・凌霜隊に追撃され、平川支隊は敗走(第1次小山の戦い)。同日、昼過ぎ、結城城から南下の祖式支隊(結城・館林・須坂藩兵)は、大鳥本隊の先鋒と、武井宿(結城市武井)・北南茂呂村間の台仙坊(大戦防)付近で遭遇、砲撃・銃撃戦となり、挟撃をねらった祖式支隊は多くの戦死・負傷者を出し敗走(第2次小山の戦い)。
 平川支隊敗走の報を受け、香川本隊(岩村田・彦根・足利藩兵)は宇都宮から南下、先に小山宿を抑えることに成功、同17日、午前9時頃、迎撃戦にでますが、侵入する大鳥本隊に散開・包囲され敗走(第3次小山の戦い)。
同日の夕方には、結城城より進軍した祖式支隊が、小山宿で休息中の大鳥本隊の隙をついて攻撃しますが、反撃にあい敗走(第4次小山の戦い)。小山の戦いは、いずれも旧幕府軍の快勝に終わり、香川救援隊は事実上潰滅しましたが、以降の戦局は旧幕府軍側に不利な流れとなり、戦場も北へ移っていきます。
結城市武井には、小山の戦いで戦死した新政府軍館林藩兵の墓がひっそりと建っています。

(この項、「古河文化見聞録」HPより)

※「日光東往還」は、野田からお山まで宿場を戦場とした、戊辰戦争の激戦地となっていたわけです。前回、街道筋にあった石碑には、「四月一六日」と記されていますので、この関連がありそうです。

真向かいに本陣を勤めた武井家。

その先、左手に大きな長屋門の屋敷。問屋を勤めた斎藤家といわれる。

他にも立派なおうちが。

                   

※日光東往還を歩いた先達の中にはこの付近から一本西の道・旧鎌倉街道を歩く方もありますが、小生はそのまま県道を進みます。

この路地の突き当たりに「旧鎌倉街道」がある?

 

スロープに藤棚を設けた工場。

畑の向こうに筑波山。

どういうわけか信号機が。

この先で宿は終わり? 

振り返る。明治維新の戦乱に翻弄された宿場でした。

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その2。七五三場(しめば)。再び鎌倉街道。しもうさ。大戦防。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-13 19:41:09 | 日光東往還

七五三場(しめば)地区に入る。

難読地名紀行
結城市七五三場 由来はしめ縄か当て字か

 結城市の中心街から南へ車で約20分。古河市との市境付近は、「七五三場」と書いて「しめば」と読む。結城市の大字だ。漢字表記が読み仮名の字数を上回るこの珍しい地名には、どのような由来があるのだろうか。

 結城市生涯学習課に問い合わせたところ、「何か言い伝えがあると聞いたことがある。住民なら知っているかもしれない」とのこと。早速、県道沿いに住宅が並ぶ七五三場の集落を訪ねた。

 公民館に足を運ぶと、近くに住む川面七郎さん(81)に出会った。川面さんは「昔、お年寄りから、茂呂神社のしめ縄を張っていたから七五三場になったと聞いたことがある」と教えてくれた。

 神社などで用いるしめ縄にはさまざまな種類があり、その一つに、結った縄から垂らすワラの数を順に3、5、7本とするものがある。しめ縄を「七五三縄(しめなわ)」とも書くのは、こうしたことに由来しているとされる。神社のしめ縄から、七五三場になったのではないか、というわけだ。

 もっとも、七五三場や近隣に「茂呂神社」を見付けることはできなかった。北に隣接する北南茂呂地区にある「諏訪神社」のことを指しているのだろうか…。

 その一方で「日本歴史地名大系」(平凡社)によると、現在の七五三場周辺を指すとみられる地名として、鎌倉時代に「志目波」、安土桃山時代に「志めは」と記された文書が残っているという。

 これが正しいとすれば、「志目波」が「志めは」に転じて「七五三場」へと変貌したと推測することができる。七五三場の字が当てられた当時は、読み方が先にあって、縁起の良い漢字を後から当てたのかもしれない。

(この項、「産経新聞」より)

では、「志目波(しめは)」と言う地名のいわれはどこから来ているのか、新たな疑問がわいてきます。

※香取市に住む「七五三(しめ)」さんが遠い親戚筋に当たります。おそらくこの苗字の読みは注連縄(七五三縄)から来ているものと考えられます。たしかに香取神宮の影響か神社が多い地域に住んでいます。

大きな屋敷の脇に「鎌倉街道」(↓)という案内板がありました。

矢印に沿っていくと、竹藪に。

この先で地元の方に出会うと、街道の西側100㍍ほどのところに道があって結城の方まで続いている、とのこと。

立派な門の屋敷や広い敷地の家が目立ちます。

 

             

「七五三場」バス停。   

 馬頭観音。判読不能です。

 振り返る。   

集落を抜けると、視界が広がる。

右手遠くに筑波山。

左手にも畑が広がる。

「茨急バス」北茂呂車庫。

使用されなくなった古いバス停が置いてある。

                         古河駅からのバスの終点。

筑波山の双耳峰が重なって見える。

     

面白い形状の火の見櫓。

    

路傍の石碑。戊辰戦争に関わるもののようです。

戊辰戦争においての結城藩の動向は別の機会に。

    

左に「しもふさの郷」。

右手に広大な土地に太陽光パネルが設置されています。

シャープ結城太陽光発電所。

かつての「しもうさ東武CC」の跡地のようです。

結城市はかつては千葉県でした。現在は茨城県です。そのいきさつは?

「大戦防」交差点。

ここ一帯は、戊辰戦争の激戦地でした。この付近は、少し高台になっているので、「台仙坊」「大仙坊」などと言われていたそうです。どういういきさつで「大戦防」となったのか、諸説有るようです。

一説では、慶応4年(1868)に官軍と結城藩の激しい戦いがあり、その後に「大戦坊」と字が変わったということです。

この先の「武井宿」も官軍・幕府軍の戦闘で破壊されてしまったようです。

 

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茨急バス「諸川」~JR水戸線「結城駅」。その1。諸川宿。本陣・脇本陣。薬医門。鎌倉街道。(「日光東往還」を歩く。第5回目。)

2022-05-12 20:04:04 | 日光東往還

    JR宇都宮線「古河駅」から茨城急行バスで「諸川」まで。今回はJR水戸線「結城駅」まで。

「諸川」交差点。

         「諸川宿」には、古い家並みが残っています。

染谷商店。重厚な見世倉。

             「下総国諸川 米穀 肥料 創業大正七年 染谷喜重商店」とあります。さらに、正面のところに「絵手紙 絵画 英会話教室 留学相談無料」とも。                  

奥に、本陣中村家の長屋門。

重厚な蔵造り。

諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)

江戸時代日光東街道(関宿通多功道)における下総国宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。

日光東街道の起点となる日光街道との追分から数えて7番目の宿場である。

江戸時代以前の諸川は「茂呂河」とも呼ばれ、結城氏庶流の豪族・山川氏の所領であったと考えられている。

慶長5年(1600年)、徳川家康会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一豊公記』)、このころには町屋が整備されていたことが分かる。このとき、山内一豊はから大坂石田三成方の情勢を知らせる「笠の緒の密書」を受け取り、下野小山に在陣中の徳川家康に届けることで、家康の信頼を得た。その後の立身のきっかけとなった場所でもある。

宿駅の成立は、元和5年(1619年)頃と考えられている。宿駅の管理は主に幕府が担った。ただし、寛永16年(1639年)から18年までは下野国壬生藩領、寛永18年から宝暦元年(1651年)までは旗本 であった。

文政 4年(1821年)の『諸川町村鑑明細帳』によれば、家数は95軒、人口は376人(男198人、女178人)である。町の中央には本陣脇本陣が一軒ずつあり、本陣の正面に高札場があった。

宿場の位置は、現在の国道125号と日光東街道に相当する県道17号の交差点「諸川十字路」付近を南端とし、県道17号沿いの諸川郵便局付近を北端とした。南から順に上町・仲町・下町、および途中で東側に分岐する下妻道沿いの新町から構成された。

(この項、「Wikipedia」より)

※山崎宿、中里宿、関宿、境宿、谷貝宿、仁連宿、諸川宿と7つの宿場を通過。残りは、武井宿、結城宿、多功宿。

向かいには「大橋醤油店」。

店先には大きな釜。

奥に工場が広がっています。

蔵造りの三和諸川郵便局。

薬医門に長い塀を巡らせたお屋敷。脇本陣小林家。

        

郵便局の隣にも立派なお屋敷が。

        

※「薬医門」・「薬師門」

薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。

(この項「薬医門https://www.kcn-net.org › mon › yakuimon › yakuimon」HPより)

この付近までが「諸川宿」だったようです。

宿内を振り返る。

「西仁連川」に架かる「宝来橋」の手前に旧道が残っていて、右手に石碑があります。

           右手に大きな記念碑。

その足もとに「鎌倉街道」というかすれた標識が。

        

※この案内板は、結城市に入ってからもありました。

「西仁連川」。

結城市に入ります。

            

     この付近の今昔。

                     1880年代のようす。宿らしい街並み。

                     2010年代のようす。里山風景は変わらない。

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朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その2。長屋門・ひいらぎ幼稚園。仁連(にれ)宿。鈴木本陣跡。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

2022-05-11 21:13:22 | 日光東往還

                 よく整った庭のおうち。

遠くに筑波山(↓)。

                 東京から見る筑波山の双耳峰のかたちが少し違うようです。

散水中? 

畑が広がります。

筑波山を遠く眺めながらの歩き。

左手に大きな長屋門。

「ひいらぎ幼稚園・保育園」とあります。

   門内のようす。

山田十字路。

        県道68号と交差。ここを通る古河駅行きのバス(「JRバス」)があります。

左手に長屋門。

右手には大きな屋敷。

             

左手に大きな古民家。

「宿」という信号名。

筑波山(↓)。

街道の途中にあった「肴屋旅館」。

大きく右に折れて「仁連宿」に入っていきます。

       

                「油屋不動産」。「(有)油屋」。肥料・農薬・農産物集荷。

街道「仁連宿内」。

振り返る。「糀屋」という看板が。

鈴木本陣跡。

             

仁連宿はもともと、日光東街道における本陣。代々引き継がれてきた古民家に、7年前に東京から移住したのが鈴木達郎さん・解さん夫妻です。現在は、干し芋づくりに取り組みながら、仁連宿を撮影スタジオとして貸し出しています。

仁連宿 は約 360 年前に建立され、 旧日光東海道の宿場として機能してきました。私たちはこの家に暮らしながら干し芋を作っています。今なお江戸の面影を残すこの家は、多くの人々が郷愁を感じる古民家であると同時に常に新鮮な空気を纏っています。

(この項、「スペースマーケット」HPより)

※「鈴木本陣跡」がこの建物であるかどうか、定かではありません。念のため。

左手に曲がる。 

「仁連」交差点。

時計職人「富多屋」。おかげさまで開業85周年。

「諸川小学校」のところで、わずかに右にカーブしていて、次の「諸川宿」に入ってきたようですが。

諸川交差点。

今回はここまで。「諸川」バス停」から古河駅まで「茨城急行バス」で向かいます。

次回は、ここから結城宿までです。

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朝日バス「境車庫」~茨急バス「諸川」。その1。谷貝宿。初見姓。(「日光東往還」を歩く。第4回目。)

2022-05-10 18:16:32 | 日光東往還

往復、バスでのアプローチ。東武線「東武動物公園駅」から「朝日バス」で前回の「境車庫」まで。

そこから歩き始めました。

JR「結城駅」まではけっこうありそうなので、半分くらいでやめ、「諸川」から「茨城急行バス」でJR「古河駅」まで。

ここまで利用した交通機関。

JR・東武・京成の電車。路線は、京成本線・東武伊勢崎線(スカイツリーライン)・東武野田線(アーバンパークライン)・JR宇都宮線。

朝日自動車・茨城急行のバス。

下車・乗り換えの駅は、「関屋」、「牛田」、「久喜」、「栗橋」、「春日部」、「曳舟」、「南柏」、「梅郷」、「川間」、「東武動物公園」、「古河」(順不同)。

バス停は「法珠花上町」、「境車庫」、「諸川」(順不同)。

この先もどうなることやら。結城まで20㎞以上あるようなので、途中で止める予定。

              「圏央道」。

門から母屋まで遠い。

「県道17号線」に合流。

                 

大型車の行き来が激しい。しかし、沿道には里山風景が広がります。

         

県道72号線から離れ、直進。

                           「古河市」に入ります。

「谷貝」。宿場があったところです。

畑が広がる。

麦畑。

沿道には、

お茶畑。

              ※黒い布で覆っているのは、抹茶の原料にするからだそうです。

家並みが増えてきます。

かつて宿場だった史跡は見当たりません。  

大きな家が目立つ。  

美容室ハツミ。 

「初見関吉翁事蹟」」碑。  

「初見」姓が多い。  

黒板塀のおうち。 

「初見肥料店」。 

「谷貝」交差点。

結局、「谷貝宿」に因むものは見つかりませんでした。 

                  この付近の今昔。

                                                                  

1880年代のようす。西側は沼地。街道には並木。        2010年代のようす。沼地は田んぼに。集落が広がる。

明治時代からお茶の栽培が盛んだったようです。  

         

こちらは水田。

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その4。常夜燈。境町。自動運転バス。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-09 20:40:40 | 日光東往還

          

リバーサイド修景事業で整備された茨城百景記念公園と常夜灯。境河岸は、かつて江戸中期より明治にかけて、主に江戸と東北を結んだ利根川水運において大きな役割を果してきました。
その境河岸の主役的存在であったのが高瀬舟です。高瀬舟は、かつて利根川、江戸川と共に「河岸の街”さかい”」の繁栄を担ってきました。
当時を偲び高瀬舟(さかい丸)を、観光船として現代風に復元しました。

※現在、運航していません。(「境町HPより)

「茨城県稲敷郡境町」。今回のように街道歩きをして初めて知ったところです。

境町はどこに? 

橋を渡って信号を左折します。

電柱に利根川が氾濫したときの水没の高さが赤い線で示されています。見上げるほど高さで、7.1㍍と標示されています。

      2階屋根の高さ。対岸の埼玉県でも見かけたことがあります。 

正面、突き当たりを左に曲がれば利根川の土手。渡し場になっています。右折すると、境町の中心となります。

利根川土手方向。

                   利根川付近の今昔。

                                                                                                                     

1880年代のようす。渡し場がある。繁栄する境町。       2010年代のようす。利根川の改修で様変わり。           

右角にある古びた建物。

              

旧街道沿いの街並み。

                   人通りもなく、静か。 

昔を偲ばせるものはあまりなさそうです。 

興味深いバス停が。自動運転バスのりば。

境町で運行している自動運転バスは、仏ナビヤ社製の「ナビヤ アルマ(NAVYA ARMA)」で乗車定員は最大15人。境町での実際の走行時には、定員は11人と定めて運行している(新型コロナウイルスの感染拡大防止に伴い現在はオペレーター除き8人まで)。また、運行をサポートするオペレーターが常に1人同乗する(定員に含む)。運行当初は、オペレーターに加えて、安全を確認する役割の監視員も同乗させていたが、途中から監視員を置かず運用できるようになった。

 実際に乗り込んでみると、社内はさほど広くはないが、窓が大きく閉塞感は少ない。最高速度が低く抑えられていることもあり、スタートや停止などはスムーズで、乗り心地は悪くない。もちろん加速感や減速感はそれなりにあり、「横に動くエレベーターという感じだと思っていただきたい」(橋本町長)という言葉も納得できる。

車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)   車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)
 
車内は窓が大きく開放感がある。車内後方にはオペレーターが同乗し安全監視や緊急時の操作などを行う(写真右)。手にしているゲーム機のようなコントローラーで操作する(写真:高山透)

 バスは、あらかじめ登録された地図情報とGPSによりルートの位置情報を把握し、そのルートに沿って走る。バスの外に設置されたセンサーにより、障害物がないか360度周囲の状況をリアルタイムで感知しながら走っている。

 運行は信号待ちからの再発進などのときを除き基本的に自動だが、オペレーターは乗客の乗り降りの安全確認や、赤信号の停止状態から交差点を通過する際の発進を確認したりする。また、全体の運行状況をリアルタイムで監視する遠隔監視センターも設置されており、同時に走る2台の自動運転バスの現在の状況をチェックしている。

バス内のモニターにあらかじめ組み込まれた路線データが映し出される。モニターには障害物センサーがリアルタイムに検出している周囲の建物や障害物の映像を表示することもできる(写真:高山透)
バス内のモニターにあらかじめ組み込まれた路線データが映し出される。モニターには障害物センサーがリアルタイムに検出している周囲の建物や障害物の映像を表示することもできる(写真:高山透)
 
遠隔監視センターでは運行中の2台の自動運転バスの状況を車載カメラの映像を通じてリアルタイムで監視している(写真:高山透)
遠隔監視センターでは運行中の2台の自動運転バスの状況を車載カメラの映像を通じてリアルタイムで監視している(写真:高山透)
 
郵便局や病院、役場など主要施設を結ぶ“旧道”を運行

 自動運転バスが走る路線は2系統あり、ともに「道の駅さかい」をターミナルとしている。1つは、東京との直行バスの発着する高速バスターミナルを結ぶ約8㎞のルートで、ショッピングセンター(エコス)、境高校などを経由する。もう1つはシンパシーホール(勤労青少年ホーム)を結ぶ約6㎞のルートで、医療施設や育児施設を通っている。ともに、銀行や町役場、小学校を経由する。

運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)  運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)
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運行路線は2つある。1つは高速バスターミナル行き路線(左)でショッピングセンターのエコスや境高校を経由する。もう1つは市民ホールのシンパシーホール行き路線(右)で郵便局や医療施設を経由する(資料:境町)

 境町の主要施設を結ぶ自動運転バスのルートは、町内を南北に走る県道17号線や、東西に走る県道137号線は通らない。交通量の多い幹線道路を避け、いわゆる市街地の“旧道”を選んでいる。利用者として想定している高齢者などがよく使う場所を考えたのはもちろんだが、自動運転バスは、最高速度が20㎞で運用されているため、片側2車線ある幹線道路を走ると他の車両との速度差が大きくなり、他の車両に与える影響や危険が増すと考えたためだ。

 運行しているルートは、片側1車線の対面通行の道路がほとんどだ。信号のある交差点は少ないものの、町の主要生活道路であり、普段から自動車の通行量はそれなりにある。さらに従来からあるバス路線もそこを通っている。その中を、最高速度が20㎞の自動運転バスが走ると、後続の自動車による渋滞も発生する。

 運用開始当初は、渋滞が多く発生したり、後続の自動車が無理に追い越すというケースも多かったが、バス停の間隔を狭めて停車時に後続が追い越す場所を増やしたり、バス停付近の停止位置を変えて追い越しやすくするなど、最高速度は変えずに渋滞を減らす工夫を重ねていった。

商店街の中を走る自動運転バス。運行ルートは片側1車線・対面通行の道路がほとんどだ(写真:高山透)
商店街の中を走る自動運転バス。運行ルートは片側1車線・対面通行の道路がほとんどだ(写真:高山透)
 
自動運転バスのバス停。法規上は既に営業している路線バスと同じ場所にバス停を置けないため独自に設置している。なるべく停車スペースを取って後続のクルマが追い越しやすいように配慮している
 渋滞がさほど問題にならなくなってきたのは、「自動運転バスが町民の中に定着してきたことが大きい」と、自動運転バスの運行業務を受託しているボードリーの佐治友基社長は言う。

 佐治社長は、自身もオペレーターとして実際に運行中のバスに乗り込んだ経験があり、自動運転バスに対する町民の受容の変化について、実感を込めてこう語る。

自動運転バスの運行システムや運用を担うボードリーの佐治友基社長(写真:高山透)
自動運転バスの運行システムや運用を担うボードリーの佐治友基社長(写真:高山透)
 
 「どのルートを通っているか認知されてきたことで、急ぐ必要があるクルマは別の道路を使うといったことで自発的に渋滞を回避してくれていると感じます。よく利用する高齢者は、道ですれ違っても挨拶してくれるようになったり、病院の前を通るときには、入院している患者さんが手を振ってくれたりすることもあります」

1年間の利用者は約5300人、2年間で約7億円の効果

 前述のように、運用開始から1年を経て安全性については問題が起きていない。自動運転バスを町の新しい交通インフラとして導入した成果を橋本町長に聞いた。

 「まだ路線は限られているとはいえ、町内の交通弱者に自力で移動できる手段を1つ提供できた意味は大きいと考えています。また、副産物として、この小さな町がメディアに取り上げられたり、自動運転バスに関心を持つほかの自治体や研究機関からの視察が増えたりしたことで、境町のブランド力は大きく向上したと思います。これが、ふるさと納税の伸びや移住促進にも貢献していると考えています」

 境町の自動運転バスのこの1年間の経緯と実績については、運用を受け持つボードリーが「2021年度 安定稼働レポート」として公表している。それによると、自動運転バスの運用にかかる費用は、2020年4月から2025年3月までの運行準備期間を含む5年間で約5.2億円。2021年度からは事業費の2分の1は地方創生推進交付金が交付されるため、残りは境町の予算でまかなっている。

 この出費に対して、生じた経済効果は、メディアに取り上げられたことによる知名度向上による広告効果や視察や寄付の増加による効果などを金銭換算すると2年間で約7億円になるとボードリーは試算している(同社が2月8日に発表したリポートでは6億円と試算していたが現在は約7億円に修正)。

 これを受けて、境町では自動運転バスの運行路線をさらに拡大していくことを計画している。現在の2路線に加えてさらに第3期、4期、5期と町内のカバー範囲を広げるよう新たに路線を増やす計画だ。人口が少ない地域へ路線を広げると、利用者数や利用頻度が低下することが予想されるが、そこは、スマートフォンアプリによるオンデマンドで車両を予約できるようにするなどで、効率化を図る考えだ。路線の拡大とアプリの導入については、令和3年度中に着手する。利用料金はこの先も現在と変わらず無料を維持したいと考えている。

今後の自動運転バスの路線延長計画。現在の第2期にまでのルートに加えて保育園までのルートなど境町全域に広げていく計画だ(資料:境町)
今後の自動運転バスの路線延長計画。現在の第2期にまでのルートに加えて保育園までのルートなど境町全域に広げていく計画だ(資料:境町)
 
自動運転バスは住民が育てるもの

 定常運航から1年を経て、自動運転バスはどんな変化を境町にもたらしたのだろうか。 まず、多くのメディアに取り上げられることによって町の知名度向上に貢献したことは間違いないだろう。前述のように町への視察件数が1年間で100件を超えたことからも、知名度アップは明らかだといえるだろう。自動運転バスが新しく町の名物になったことは、自動運転バスにちなんだお土産品が売られるようになったことからもうかがえる。

境町の観光スポットの1つである河岸の駅さかいでは、自動運転バスをモチーフにしたお土産品が売られるようになった。

 町民の受容も進んだ。自動運転バスの「スピードの遅さ」は交通渋滞を引き起こす要因となるが、ボードリーのリポートによると、交通渋滞は1年間で9割減少したという。これは、自動運転バスの運行に協力的な町民が増えたということだ。運行に関する工夫やPR活動が奏功したのはもちろんだが、町民の間に自動運転バスの運行事情に対する認知が進んだ結果、街の暮らしの中に自動運転バスの存在が馴染んできたということだろう。また、様々なメディアで報じられ高い評価を受けたことも、住民のシビックプライド醸成につながり、そのことが運行に協力的な姿勢へとつながったと考えられる。

 橋本町長は「まだすべての町民に完全に受け入れられたわけではないが、これからさらに広く町民が恩恵を受けられるよう実績を重ねていきたい」と語る。自動運転バスをスムーズに走らせて交通弱者である高齢者などがその利便性を十分に享受するためには、単に、ハードとソフトを地域に導入するだけでなく、そこに暮らす町民全体がその役割を認識し、運行に協力する姿勢を持つことが重要といえそうだ。

 自動運転バスは、やはり「住民が育てる大きなペット」のようなものかもしれない。

この記事のURL https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/434167/022100208/

(この項、「」HPより)

向こうからやってきます。けっこう人が乗っています。

                  通りを歩いていて二度ほど出会いました。

ユニークな取り組みで期待できます。

 

昔ながらの商家。 

ここにも「想定最大水深」。6.6㍍。人の背丈の3倍以上。

この辺が商店街の中心。

「境中央名店街」バス停。

境車庫までけっこう歩きます。

        

   

今回はここで終了。「境車庫」から朝日バスで東武線「東武動物公園駅」まで出ました。

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その3。鈴木貫太郎記念館。利根川土手へ。関宿城博物館。境大橋。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-08 18:31:14 | 日光東往還

     昭和20年(1945)終戦時の内閣総理大臣だった「鈴木貫太郎記念館」。当面休館中。        

            「鈴木貫太郎翁終焉之地」碑(吉田茂謹書)。

内閣総理大臣として日本を終戦に導いた鈴木貫太郎翁が、幼少期と最晩年を過ごした地でもある旧千葉県東葛飾郡関宿町に開館した記念館です。

記念館は貫太郎翁の旧宅があった場所の隣にあたり、軍服や日常生活品などの遺品や肖像など500点以上を所蔵するほか、昭和天皇の「御聖断」を仰ぎ、ポツダム宣言の受託を決めた御前会議を描いた油絵「最後の御前会議」(白川一郎画)が展示されています。

また、敷地内には、「永遠の平和を築く」ことを願い、戦後貫太郎翁が好んで書いた「為萬世開太平」と記された白く大きな塔が静かに立っています。(「野田市」HPより)

「博物館入口」信号から左斜めに真っ直ぐ進みます。

正面に利根川の土手。

                       右は「境大橋」への道。

色あせた解説板。                 

日光東往還と利根川の渡し

日光道中(街道)の東側の脇街道の一つとして、水戸街道の向小金(柏市)付近から関宿城の大手門前を通り、城の東側を周回して利根川縁に至り、渡し船にて境河岸に渡り、結城(茨城県)付近を経て、雀宮(栃木県宇都宮市)で日光道中と合流している。関宿付近では藩主にちなみ「久世街道」とも呼ばれていた。この街道を通って日光方面の物資は境河岸に集められ、旅人などは対岸の境と関宿の間を渡し船に乗り往復していた。そのため、江戸時代のこの街道筋は江戸と地方を往来する人々で賑わっていた。

左手遠くに「関宿城博物館」。

土手への道筋に。           

               安全祈願の大きなカエルの石造が二体。

土手に上がってみます。

2月以来の再訪。関宿城が見える。

「関宿城博物館」は、「利根川」歩きの時に立ち寄って見学しました。その時の館内の一部を再掲。

関宿絵図。

4F・天守閣(展望台)からの四方の展望。

利根川の流れ。

        筑波山。

富士山。

      

         利根川に架かる橋は、「圏央道」。その奥に赤城山。

・・・

この博物館はけっこう見ごたえがありました。マイカーでないと来にくいところですが、ぜひ再訪したいものです。

対岸のようす。

                     右の建物は「道の駅さかい」。

下流を望む。

関宿方向。

江戸川方向。

境大橋を渡って対岸の茨城県・境町へ。

                        「海から120.5㎞」。

         

利根川歩きで歩いた土手。

                        下流方向。

併設されている歩道橋を歩きます。

利根川下流方向。

上流方向。

「関宿城博物館」(↓)。

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その2。関宿城埋門。関宿台町。関宿関所跡。関宿江戸町。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-07 20:11:37 | 日光東往還

                        関宿城埋門(うずめもん)。

解説板。

この埋門は、もとは関宿城三の丸に設置されていたものです。平時は本丸までの通用門として使用されていましたが、簡素な造りのため籠城戦の際には、内側を三分の二の高さまで土で埋めて、敵の侵攻を防ぐという役割を担っていました。

明治維新後、廃城に伴い民間に払い下げられ、現在の場所へ移築されました。門の鬼瓦には江戸時代中期から明治維新まで関宿藩主を務めた久世氏の家紋(久世鷹の羽)があしらわれ、城門であったことを現在に伝えています。                                         

千葉県内において現存する数少ない城の建築物の一棟です。

          の部分に久世家の家紋が。

正面。

奥のおうち。

県道に合流する手前右手に「路分け六地蔵」があり、脇の二十三夜塔が道標になっているようです。

 

解説板。

・・・六地蔵の側に「天保八年九月吉日」(1837年)と年号が刻まれている二十三夜塔があります。側面に「左木間ヶ瀬・右江戸道、ほうしばな」とあります。・・・地域の人たちに長い間愛され続けてきた六地蔵です。そして長い間路分け地蔵として旅人や多くの人たちに役に立ってきました。今でもこの三叉路と路分け地蔵が立つ場所は、当時のままの姿で残っており、またこの付近の道筋も変わっていません。

県道を進んでいくと、右手前方に「利根川」の土手が見えてきます。

「街道ラーメン」。

ここを右折し、旧道へ。

花山橋。

 

           利根川土手下まで田園地帯が広がる。              

旧道らしい雰囲気。

県道に合流。左手に富士浅間神社。

「長命庵」。

          人気店のようです。 

      (「長命庵」HPより) 

関宿台町。

大銀杏。その下に「二十三夜塔」。

道筋には神社・仏閣が建ち並んでいます。

町の花ボタン。町の木イチイ。

関宿台町交差点。

「関宿関所跡」碑を確認するため、左折して江戸川土手方向へ進みます。

「江戸町」バス停。

大きく道がカーブするところに「関宿関所跡」碑。

               

解説板。

関宿関所と棒出し

・関宿関所

幕府は、江戸と地方を往来する船が必ずこの関宿を通ることからここに関所を置き、船の積荷や人改めを厳しく行いました。この関所を通るためには通行手形がないと通ることができませんでした。

関所があった場所は、江戸川流頭部の堤防が突き出した「棒出し」と呼ばれる施設の上に置かれ、関宿藩が関所の管理をしていました。

・棒出し

棒出しの設置時期は、文政5年(1822)、天保期(1830~43)など諸説ありますが、天明3年(1783)の文書に棒出しの記述があるからから天明3年にはすでに設置されていた可能性があります。

棒出しの目的は、利根川・逆川・江戸川への水量調節にありました。

昭和2年(1927)に関宿水閘門が完成すると昭和4年(1929)に撤去されました。

※「関宿水閘門」は、利根川・江戸川歩きの時に確認しました。

江戸川土手。

                     1880年代のようす。両岸の賑わいぶりが知れる。

○が現在の「関所跡」碑付近。右が江戸川、左が権現堂川(二つの川の上流が逆川で、利根川から分岐している)。

                     2010年代のようす。○が「関所跡」碑の付近。 

上の図からも分かるように、河岸にあった江戸町の中心は、江戸川改修で失われてしまっている。また、権現堂川は流路変更によって、利根川・江戸川から切り離されている。                    

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朝日バス「法珠花上町」~「境車庫」。その1。法珠花。旧道の復活。松並木。流山街道。(「日光東往還」を歩く。第3回目。)

2022-05-06 21:03:19 | 日光東往還

今回は、野田市関宿から利根川を越えて茨城県境町まで。東武野田線「川間駅」から朝日バスで前回のバス停へ。

「関宿」は「利根川」、「江戸川」歩きで立ち寄ったところです。

「日光東往還」道は、「関宿台町」まで「流山街道」とほぼ重なるように進みます。

前方は「法珠花橋」。

ところで、「法珠花」とは?

江戸時代以来、江戸川では帆掛舟が往来し舟運が発展。部の宿舎が建っている西宝珠花は、荷物の揚げ下ろし・船宿・呉服問屋などで栄えました。江戸から川をのぼってやって来た舟頭たちはここで休憩を取りがてら船の帆を干したのでしょう。

帆を干す場という呼び名がいつしか転訛し、ほうしゅばな、宝珠花という地名になったという説があります。

参考:『宝珠花今昔』庄和高校歴史地理部/『地名を歩く 36』讀賣新聞2007年5月12日(土曜日)朝刊

さて、地名の由来はもう一説あります。
江戸初期に江戸川の開削により形成された下総台地。その北側の台地を宝珠花支台と呼びます。東に江戸川が流れ、(航空部ランウェイのすぐ横ですね)

西には縄文海進期の海成層を主体に海退期の土砂の堆積によって形成された中川低地が広がるこの台地はその地理的特徴が由来し、榜示(ほうじゅ)…地の境界の意 + はな…大地の先端の意 =ほうじゅばな/宝珠花 という地名が付いたという説もあるようです。

(この項、「明治大学体育会航空部」HPより)

※江戸川によって千葉県側、埼玉県側と二分され、東西に法珠花という地名があります。

「法珠花橋」の先で土手を下ります。

     

この付近で、江戸川河川敷で消失していた街道が復活します。

          

左手に江戸川土手。

右は木々に囲まれた家。

けっこう交通量が多い道を進みます。

※この先も「日光東往還」は今でも幹線道路のようです。

朝礼中のお店。

野田市立二川小学校の先から松並木が植えられています。

  ちょっと弱々しい印象。

解説碑。

日光東街道の松並木について

・・・「日光東街道」は日光街道のバイパス的役割を果たしていました。「関宿街道」とか「久世街道」とかいろいろな呼び方をされてきましたが、文化二年(一八〇六)幕府道中奉行が編さんした「五街道其外分間見取延絵図」には「関宿通多功道」と記されており、これが幕府が定めた公式の街道名です。現在ではわずか残っている松の巨木が往時を物語っています。市の重要史跡ともいうべき「関宿通多功道」のいわれも又、松並木の松のように、失われることおそれ松の若木を補植し、改めて市の歴史を深く理解していただくことを願っています。          関宿ライオンズクラブ

ただ、二川小学校の樹木に比べ、車の排気ガスなどで、かなり弱っていつような木も見受けられたのが気になります。なんとか順調に生長してもらいたいものです。

「柏寺」バス停。

東葛飾病院。

カラー版マンホール。

諏訪橋。 

           →関宿城埋門案内。                           

この先は、

①左に進み、関宿城大手門に通じていた道(ただし、途中で江戸川土手で消滅)

②県道をそのまま進み、「工業団地入口」交差点から右折して行く道があります。

②の方を進むことにしました。

           

右折したところに解説板。

旧日光街道東往還関宿多功道

日光街道東往還関宿多功道は、本街道である日光街道の東側を通っている街道です。起点は江戸からで、松戸市・流山市・野田市を過ぎ、関宿を通り、茨城県の境町・結城市を過ぎ都と件の上三川町の多功までの道程です。多功からは雀宮に出て本街道に合流します。この多功道は、江戸からの日光社参参の折や参勤交代などに多くの大名たちが通った道でもあります。関宿多功道の名称は、関宿町に入ってから出るまでの名称で、それぞれの地域では別な名称があります。

※大きく長い赤のが目立ちます。

                   

               この付近の今昔。

                                                                          

1880年代のよう左上に進む細道がお城への道?            2010年代のようす。○が分岐点。旧道は右へ。

この先、右奥に「関宿城埋め門」があります。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その4。喜八堂。新宿(あらじゅく)。いちいのホール。江戸川土手。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-04 20:27:28 | 日光東往還

喜八堂。

店先では若い職人さんが一生懸命煎餅を焼いています。いい香りが漂ってきます。

       

昭和2年(1927年)に東京神田創業以来、喜八堂(きはちどう)は、米の選定から生地作り、そして焼き上げと一貫したせんべい専門店です。
生地屋は煎餅の生地までを作り焼屋にそれを卸し、焼屋は生地屋の作った生地を焼き上げます。
喜八堂では全てを、米の選定から焼き上げまで、ひとつひとつの素材を吟味し、ひとつひとつの仕事に責任を持ち、選びぬかれた最高の素材たちを職人が手間ひまかけて仕上げます。
そこには誰のせいにも出来ないという責任と、お客様へ最高の商品をお届けすると言う夢があるからです。

喜八堂は創業以来、殆どの商品に保存料、着色料、添加物、化学調味料を使用しない理由があります。

  • 素材へのこだわり

    素材へのこだわり素材の味、自然の味を大切にします。その為には原材料自体の味がとても大切です。ひとつひとつの素材を吟味します。
  • 製法へのこだわり

    製法へのこだわり天日干しから手焼きなど職人たちが素材の味を引き出すために時間をかけて製法にこだわっております。 (この項、「喜八堂」HPより) 

「日本一せんべい処 喜八堂」は、銀座で創業の後、先々代から東京の向島で開業していたこともある、とか。その後、実家である関宿に店舗を移し、今や、東京駅八重洲口にも店を構え、全国展開しているお煎餅屋さんです。

ここでお汁粉を食べながら休憩。まさに「お休み処」でした。そしてお土産用にささやかですが、二品。

さて、もう少しで、今回の歩きも終了です。

「新宿(あらじゅく)」交差点。

「新宿」は「しんじゅく」と読んだり、「にいじゅく」と読んだり、ここのように「あらじゅく」と読んだりします。

野田市関宿総合公園。

              

「いちいのホール」。

平成15年6月6日、野田市と関宿町は合併し、新しい野田市が発足。
平成16年4月1日、旧関宿町役場庁舎を支所・図書館・コミュニティ会館・関根名人記念館などの入る複合施設「いちいのホール」としてオープンした。

※「いちい」は旧関宿町の木であった「イチイ」に由来。

※「関根名人」=将棋棋士。

千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多くの逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。

[原田泰夫]『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』(「コトバンク」より)

後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫中原誠加藤一二三羽生善治森内俊之がいる。(「Wikipedia」より)

ようやく県道(流山街道)と旧道(左に入る道)との分岐点に到着。

左手の道を進む。

江戸川土手に向かいます。

かつての日光東往還の道は、沿道の集落ごと「江戸川」の河川敷になってしまっている。

                                                                                                                                                                 

1880年代のようす。渡し場から土手道に。             2010年代のようす。街道は江戸川の河川敷内に。

3月始め以来の江戸川土手。

                   「海から50.25㎞」。

前回の時は菜の花が満開でしたが、今回は・・・。

この先の県道のバス停から朝日バスで川間駅まで戻ります。次回はここまでバスで来ることに。

旧関宿町マンホール。

               旧・関宿町の花「ボタン」(市の木は「イチイ」)をデザインしたもの。

             

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その3。中里宿。LIXIL技術研究開発センター。旧道消失。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-03 20:54:02 | 日光東往還

               沿道の左右奥には、樹木が茂っています。

       

派手な幟がいくつも。

               「カラオケ もみじ」。けっこうはやっているようで、人の出入りも。

道ばたにフジの花。

直線の道もここまで。「船形」地区。

「川間駅入口」交差点。

この先から「中里宿」が始まっているようです。

中里。

しかし、「中里宿」を示すものが見当たりません。

ふと右にあるお寿司屋さん「柳寿司」の、のれんを見ると、

「中里宿」とありました!

  本陣だったおうち?

立派なおうちが多い。

モッコウバラ。

「関宿」の地名が。

「国道16号線」の高架下を進みます。

「流山街道」が広く整備され、旧道は「LIXIL技術研究開発センター」で遮られてしまうので、その先を左折します。

               

すぐ右折すると突き当たりの雑木林のところで左右に分岐しています。

分岐点の雑木林の中に庚申塔。

               分け入るのが大変で、石塔の正面など詳細は確認できず。

右に行くのが「日光東往還」のようですが、「千葉カントリークラブ 川間コース」で遮られてしまうので、県道に戻ります。

この道が旧道?

県道の手前に麦畑。

「麦秋」まもなく実りの時を迎えています。

県道の向こうに何やら石像が。刀を差した人物らしいですが。

 

県道の両側に森が迫ってきます。   

     

          千葉カントリークラブ 川間コース。

大きな墓地。

          お寺の跡らしい。

「喜八堂 休み茶屋」の看板。そこで休憩しよう。

右手に大きなお屋敷。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その2。野馬土手。真っ直ぐな道。グリコピアCHIBA。流山街道。曽田香料。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-02 20:40:48 | 日光東往還

               「野馬土手および樹木・野草保護のため散策路をご利用ください」。

散策路。

野馬土手。

       

解説板。

野田市の北部と南部は、江戸時代の初期に庄内牧(しょうないまき)とよばれる、野馬のほうぼくじょうとなっていました。庄内牧は徳川幕府により設置され、その目的は、幕府御用馬の生産や輸送、農耕用の馬として民間の需要にこたえるものでした。

牧に隣接した村を「野付村」といい、村々の農民には野馬法度という規則が定められ、それには①牧の外に出た馬を安全に保護すること、②年一度の野馬捕りには人足を出すこと③風雨などで壊れた野馬土手を修復するなどの義務がおわされました。しかし、その反面、野馬を民間に払い下げる際に、付近の村びとは有利に入手できたようです。

江戸時代中期になると、庄内牧はその全域が新田開発の対象地となり消滅しました。しかし、現在においても、この付近に残る野馬土手によって当時の面影をしのぶことができます。あるいは、市内の地名にみられる、牧―真木ノ地(清水)、槇の内(尾崎)、込=上野馬込(花井新田)、苅込(野田、船形)なども庄内牧に由来する歴史の産物です。

この土手は、横内・中根・堤根・花井新田へと日光街道に沿ってほぼ真っ直ぐにつながっています。庁舎前では道路の東側に、花井新田付近では西側に見ることができますが、本来は道路の両側にあって、道路の中を往来する野馬が田畑に暴れ込まないようにと、土手と堀を造ったもので、野馬除(のまよけ)土塁と考えられています。

庁舎前の土手を発掘調査した結果、土手の裾から堀の縁までの幅約6メートル50センチ、堀の底から土手の頂上までの高さ約2メートル75センチという規模のものであることが分かりました。また、堀の断面形は漏斗形で、現在の地表面からの堀の深さは約1メートル70センチでした。野田市内に現存するもの保存状態も良好で、比較的長く連続している様子を見ることができます。

※下に絵図が付記されているように、現在、堀の部分は、埋め立てられてしまっているようです。

振り返る。左手が野馬土手。

野田市役所。

市役所から先を進むと、右手に「国道16号線(東京環状道路)」が見えてきます。

この付近は、1970年代にはまだまだ緑が残っていました。

                                     

16号線の向こうは、ゴルフ場。

旧道は左へ曲り、さらに右に曲がります。

目の前には大きな更地。

「16号線」を横断し、「千葉カントリーゴルフ場」脇に進みます。

           

左手は「グリコピアCHIBA」。

千葉県野田市の「グリコピア CHIBA」は、グリコのアイスクリーム製造過程が見学できるミュージアムです。「パピコ」や「セブンティーンアイス」がどうやってつくられて家庭に届くのかを、製造ラインの見学のほか、映像やさまざまな体験により楽しく学べます。

建物の入り口には最高のフォトスポットであるグリコマークの巨大壁画があり、ゴールインポーズをきめて、思い出に残る記念写真が撮影できます。クリーンルームでエアシャワーを全身に浴びたり、巨大冷凍庫に入ってアイスクリームの保管温度を体感したり、子どもも盛り上がる体験が用意されています。

見学後には、うれしい試食タイムがあり、なぜかいつもよりおいしく感じるパピコを食べられます。さらに、有料でアイスクリームづくりができる「グリコキッチン」も実施され、親子で楽しくおいしい手作り体験ができます。大人も子どもも大満足の「グリコピア CHIBA」は、完全予約制なので、まずは予約をどうぞ。(「いこーよ」HPより)

突き当たりを左折します。

             

右手はゴルフ場、

               

左手はグリコ。

ゴルフ場や工場のために左折するのではなさそうです。旧道そのものが屈折していました。

この付近の今昔。

                                                                                                                             

1880年代のようす。現在の道とほぼ同じ。              2010年代のようす。広い道路は、国道16号。

再び国道16号を横断。

県道17号線・流山街道に合流。

           

ここから、またしばらく直線道路が続きます。約2㎞。

                船形まで続く。

振り返る。炎天下だと参りそう。

「檜溜(ひのきだめ)」バス停。

かつての地名や由来を知るために、バスの停留所名がかなり参考になります。これまでも役に立ちました。さて、この地名の由来は?

途中で見かけた看板に、

曽田香料(株) 野田支社。

国内有数の総合香料メーカー 

曽田香料は1915年創業以来、
総合香料メーカーとして香り文化の一翼を担ってまいりました。

私たちは「香料を通じた社会貢献」「企業としての充実と発展」「ステークホルダーへの適正配分による豊かな暮らし」を目指すことを理念とし、一世紀以上にわたって培われてきた伝統と理念を忘れることなく、皆様とともに歩んでいく所存です。

今日まで培ってきた豊富な経験と技術力により、安全で高品質な製品をお届け致します。取り扱い製品は、フレグランス、フレーバー、食品天然色素、天然香料、合成香料、ガス着臭剤の他、合成技術を応用したファインケミカルなど、幅広い分野を担っています。

(「同社」HPより)

歩き疲れてきたので、看板を見ただけで心が癒やされました。

・・・

ところで、松戸方面から続く「流山街道(県道5号線・17号線)」と南柏から始まる「日光東往還」との関係性について。

「Googleマップ」では、「江戸川台駅」付近から関宿台町付近まで(「日光東往還」は、一部、「梅郷駅」から野田市役所先、さらに関宿城に通じる江戸川沿いの道として標示されていますが)ほぼ重複して標示されています。

また、「今昔マップ」によると、すでに明治末・大正期には、現在の「流山街道」が太線で標示され、「旧日光東往還」は破線になっていて、流山から関宿に向かう道としては、使用頻度が低下してしまったようです。

その後、ゴルフ場の開場、工場の設置などで旧道が舗装され拡幅・再整備された、と考えられますが。

赤い線が日光東往還。

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東武線「梅郷駅」~朝日バス「法珠花上町」。その1。野馬込。花井堤根。小金(庄内)牧。中央の杜。(「日光東往還」を歩く。第2回目。)

2022-05-01 20:21:28 | 日光東往還

                 東武野田線「梅郷駅」で下車し、前回の地点まで。

流山街道との分岐点から再開。

東武線の踏切へ。

踏切を渡り、道なりに進む。

この付近までが「山崎宿」だったようです。

1880年代のようす。   2010年代のようす。

宿場の出入り口に当たる屈折があり(→)、現在は踏切部分になっていますが、その様子が確認されます。 

ここから「野田市役所」先まで、直線道路になります。 

                         約3㎞続きます。小金牧(庄内牧)を直線で貫いているようです。

          歌川広重画『富士三十六景 下総小金原』(1858年・安政5年)

野田市まめバス「野馬込(のまごめ)」バス停。

牧に放たれた野馬は8月から9月初旬に捕獲され、優秀な馬は幕府へ送られる。その野馬を捕獲する施設が「野馬込(のまごめ)」である。牧を管理していた役人である牧士(もくし)の指示のもと勢子(せこ)人足に追われた馬は、高い土手を迷路状に築いた「込(こめ)」に追い込まれてそこで捕獲される。油田牧の野馬込は南西側から延びる谷頭に設置され、高さ3mほどの土手が一辺60m~70mの三角形をなし、その内部は3部屋に仕切られている。

野馬の捕獲は年中行事として、大勢の見学者が集まるイベントの一つであったことが、当時の絵図からもわかる。野馬捕獲のクライマックスには老若男女が見学に訪れ、出店が出るほどの盛況ぶりだったようだ。(「千葉県」HPより) 

 

                    周囲は閑静な住宅地。 

バス停「花井堤根」。

※「堤根」という地名は、埼玉県行田市、杉戸町などにもある。これらは荒川や江戸川の土手に関わる地名のようだが、ここは、野馬土手(堤)に関係するようだ。

右手に「もりのゆうえんち」。

     

右手付近から森が多くなってきます。

野馬土手が連なります。

奥に森が広がる。

                                                     2010年代のようす。周囲の市街地化にあって保存されているようす。

   

              奥深い散策路。 

「中央の杜」。

この山林は、市民がみどりと直接親しめる場を提供する目的で野田市総合計画に基づいて保存しております。野田市の原風景を形成する貴重な平地林であり、過去の里山の風景を未来に伝えるために、樹木・野草の育成及び保全を目的として散策路を設置しております。多くの植物が生育するこの山林は市民の大切な財産です。自然の中の樹木や野草を大切に見守ってください。     むやみに山林内に立ち入らないようお願いいたします。

通りの左側は開発が進む。              

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