「文藝春秋」最新号の”霞が関コンフィデンシャル”のところに、興味深い記事が載っていた。
内閣官房の事務官があれこれ指示をしても、厚労省の技官が言うことを聞かないので、コロナ問題対応がギクシャクしているという趣旨の記事である。
そこで気になったのは、厚労省の技官は自ら恃むところすこぶる厚く、閣僚や事務官の指示をネグレクトしているという指摘であった。
確かに、閣僚や事務官が間違った政策を実施しようとした場合、技官が「専門性」を盾にしてこれを阻止するというのは、場合によっては賢明な策ともなり得るだろう。
だが、コロナ問題を見れば分かるとおり、「専門性」を標榜する人たちの判断が、必ずしも正しいとは限らない。
また、(独立性が要請される検察庁などとは違う)一般の官僚組織(一部)において政策遂行についての大幅な”自治”(端的にはネグレクト)が許されるというのは、三権分立の観点からも疑問が出てくる。
公共事業の発注を巡って技官が政治家とタッグを組むという状況(指定席をご参照)も異常だけれど、政治家や事務官の指示が技官たちにスルーされてしまう体制も、やはり異常なのではないだろうか?
やや飛躍するが、戦前・戦中の陸士・陸大出身者の「暴走」を思い起こしてしまうのである。
内閣官房の事務官があれこれ指示をしても、厚労省の技官が言うことを聞かないので、コロナ問題対応がギクシャクしているという趣旨の記事である。
そこで気になったのは、厚労省の技官は自ら恃むところすこぶる厚く、閣僚や事務官の指示をネグレクトしているという指摘であった。
確かに、閣僚や事務官が間違った政策を実施しようとした場合、技官が「専門性」を盾にしてこれを阻止するというのは、場合によっては賢明な策ともなり得るだろう。
だが、コロナ問題を見れば分かるとおり、「専門性」を標榜する人たちの判断が、必ずしも正しいとは限らない。
また、(独立性が要請される検察庁などとは違う)一般の官僚組織(一部)において政策遂行についての大幅な”自治”(端的にはネグレクト)が許されるというのは、三権分立の観点からも疑問が出てくる。
公共事業の発注を巡って技官が政治家とタッグを組むという状況(指定席をご参照)も異常だけれど、政治家や事務官の指示が技官たちにスルーされてしまう体制も、やはり異常なのではないだろうか?
やや飛躍するが、戦前・戦中の陸士・陸大出身者の「暴走」を思い起こしてしまうのである。