ニーチェ全集10 ─ツァラトゥストラ(下) フリードリッヒ・ニーチェ 著 , 吉沢 伝三郎 翻訳
「諸事物に名称と音声とが贈られているのは、人間が諸事物で元気を養うためではないか?語ることは、一つの美しい愚行である。語ることによって、人間は一切の諸事物を超えて舞踏し行くのである。」(p141)
”Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge.”
このくだりは、数ある「ツァラトゥストラ」中のサミットの一つだと思うのだが、ここから”ソシュール山脈”の姿が見えるように感じる。
意外にも、ニーチェからソシュールへの距離は遠くないのではないかという気がする。
さて、ニーチェが「支配欲」と呼ぶところのものを「自我の拡張」と言い換えてみれば、”名づけ”という行為は、「自我の拡張」の最も一般的なあらわれということが出来るだろう。
「即興詩人」のアントニオ=アンデルセンの分身(健全な自我の拡張)やヘッセが出会った踊る少女(健全な自我の拡張(2))と同じように、私は、これこそ、健全な自我の拡張のもっとも身近な例だと思うのである。
「諸事物に名称と音声とが贈られているのは、人間が諸事物で元気を養うためではないか?語ることは、一つの美しい愚行である。語ることによって、人間は一切の諸事物を超えて舞踏し行くのである。」(p141)
”Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge.”
このくだりは、数ある「ツァラトゥストラ」中のサミットの一つだと思うのだが、ここから”ソシュール山脈”の姿が見えるように感じる。
意外にも、ニーチェからソシュールへの距離は遠くないのではないかという気がする。
さて、ニーチェが「支配欲」と呼ぶところのものを「自我の拡張」と言い換えてみれば、”名づけ”という行為は、「自我の拡張」の最も一般的なあらわれということが出来るだろう。
「即興詩人」のアントニオ=アンデルセンの分身(健全な自我の拡張)やヘッセが出会った踊る少女(健全な自我の拡張(2))と同じように、私は、これこそ、健全な自我の拡張のもっとも身近な例だと思うのである。