第15回 渋谷の午後のコンサート 〈コバケンの名曲アラカルト〉
コバケン先生「10歳のときにベートーヴェンの第九を聴いて、涙をポロポロ流して感動しました。そして、作曲家になりたいと思って、夜も寝ないで作曲の勉強をしてきました。・・・ところが、その頃(東京芸大作曲科に入った頃)、『現代音楽』などという得体のしれないものが流行っていて、『私にはこんなものは必要ない!』と思って、東京芸大の指揮科に入り直したんです。」
このくだりのところで、私は思わず爆笑した。
コバケン先生の「現代音楽」に対する全否定が、余りにも清々しかったからである。
この言葉を発したときの先生の身振りからは、「現代音楽」に対する生理的な嫌悪感があふれ出ていた。
コバケン先生のような妥協を許さぬ芸術家に限らず、一般の人でも、退学・転学、転職や離婚などの環境を一変させるような人生の転機においては、「生理的な嫌悪感」を覚えるかどうかが決め手なのではないかと思う。
そして、こういう「全否定」が、再生のために必要な場合もあるのではないかと思うのである。
・・・「コバケン先生」と言えば、「木庭顕」先生も、「コバケン」先生と読めなくはないことに気付いた。
お二人は、風貌も似ている(似てきた)し、「マエストロ」の称号がふさわしいところや、話し出すと止まらないところもそっくりだし・・・。
コバケン先生「10歳のときにベートーヴェンの第九を聴いて、涙をポロポロ流して感動しました。そして、作曲家になりたいと思って、夜も寝ないで作曲の勉強をしてきました。・・・ところが、その頃(東京芸大作曲科に入った頃)、『現代音楽』などという得体のしれないものが流行っていて、『私にはこんなものは必要ない!』と思って、東京芸大の指揮科に入り直したんです。」
このくだりのところで、私は思わず爆笑した。
コバケン先生の「現代音楽」に対する全否定が、余りにも清々しかったからである。
この言葉を発したときの先生の身振りからは、「現代音楽」に対する生理的な嫌悪感があふれ出ていた。
コバケン先生のような妥協を許さぬ芸術家に限らず、一般の人でも、退学・転学、転職や離婚などの環境を一変させるような人生の転機においては、「生理的な嫌悪感」を覚えるかどうかが決め手なのではないかと思う。
そして、こういう「全否定」が、再生のために必要な場合もあるのではないかと思うのである。
・・・「コバケン先生」と言えば、「木庭顕」先生も、「コバケン」先生と読めなくはないことに気付いた。
お二人は、風貌も似ている(似てきた)し、「マエストロ」の称号がふさわしいところや、話し出すと止まらないところもそっくりだし・・・。