Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

自我の相互放棄(2)

2022年09月27日 06時30分00秒 | Weblog
 谷崎の理想とする”隷属”は互いに行うものなので、2人の間の言説は、ラカンがいう所の「主人の言説」(基本版:「四つの言説 quatre discours」)とも違うようだ。
 この相互的な”隷属”(自我の相互放棄)は、おそらく、相手における子種の有無や財力への期待、不透明な取引などといったもの(要するに échange)とは無縁のものであるはずだ。
 ところが、「猫と庄造と二人のおんな」における庄造と二人のおんなとの間には、相互的な”隷属”ないし「自我の相互放棄」が成立しないことが、実は初めから予定されていたのである。
 庄造の前妻:品子は、庄造の借金(延滞地代)を返済するために仕立物などをして家計を支えていたが、姑のりんは、子だねがないことを奇貨として品子を追い出し、自身の兄の娘:福子を庄造とめあわせようとする。
 福子は庄造のいとこで、準近親婚になるが、父から名義を譲り受けた収益物件2件を持っており、りんはこれに目を付けたのである。

(以下ネタバレご注意!)
 「今更その嫁を追い出そうと云うのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まったのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換えられなかったし、子種のないということが難癖をつけるのに都合が好かった。それに福子の父親迄が、そうすれば娘の身が固まるし、甥の一家を救ってもやれるし、双方のためだと考えたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となった。」(p41)

 品子の放逐・福子との結婚は、まさに絵に描いたようなイエとイエ(しかも同族)の間の échange だった。
 それゆえ、そこにおいて谷崎が理想とするような「自我の相互放棄」など達せられるわけがなく、庄造が猫(リリー)に隷属する道を選んだのは必然であった。
 「猫と庄造・・・」が「隷属の拒否」による失敗なら、「痴人の愛」は「一方的隷属」による失敗であり、結局、「春琴抄」以外は全部失敗ということのようだ。
コメント
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