猫と庄造と二人のおんな 谷崎潤一郎/著
「『春琴抄』の男女は、互いに相手のために生きることによって、完結した生涯を得ることができた。それは互いに相手に隷属する決意から生まれた完璧な充実の世界である。しかしそういう結合を描いた作者は、同時にリアリストとしての眼の持主でもあった。愛とはほかならぬ”隷属”であり、幸福とは”隷属の幸福”以外にありえない。にもかかわらず、相手に”隷属”を拒否されたとき、そこにはどういう世界があらわれるであろうかーーーそれがほかでもない『猫と庄造と二人のおんな』の世界である。」(p171~172)
磯田光一氏の解説が見事で、付け加える言葉がない。
谷崎が描いたのは、”隷属”への希求、要するに「自我の相互放棄」であり、その典型は「春琴抄」にみることが出来る。
だが、これは、西洋でいうところの「愛」ではなく、その対極にあるものである。
なぜなら、「愛」とは、フロイトによれば「本質的にナルシシズム的なもの」であり、これが拡張された自我の中に同化された対象(例えば異性)にも適用されるようになるのであって、”隷属”ではなく”支配”を希求するものだからである(おやじとケモノと原初的な拒否)。
つまり、谷崎は、自我の解体のその先に、理想とする男女の関係をみているわけだ。
ところで、谷崎は大変な猫好きで、戦時期を除いて一生の間飼っていたらしく、ペルシャ猫が好きだったらしい。
どうやら近年は猫ブームのようで、私も、「もちまる日記」や「タイピー日記」をみてから寝るのが習慣になってしまった。
そういえば、「もちまる日記」の管理人の名前は「下僕」であり、まさに”隷従”の鑑のような人物である。
「『春琴抄』の男女は、互いに相手のために生きることによって、完結した生涯を得ることができた。それは互いに相手に隷属する決意から生まれた完璧な充実の世界である。しかしそういう結合を描いた作者は、同時にリアリストとしての眼の持主でもあった。愛とはほかならぬ”隷属”であり、幸福とは”隷属の幸福”以外にありえない。にもかかわらず、相手に”隷属”を拒否されたとき、そこにはどういう世界があらわれるであろうかーーーそれがほかでもない『猫と庄造と二人のおんな』の世界である。」(p171~172)
磯田光一氏の解説が見事で、付け加える言葉がない。
谷崎が描いたのは、”隷属”への希求、要するに「自我の相互放棄」であり、その典型は「春琴抄」にみることが出来る。
だが、これは、西洋でいうところの「愛」ではなく、その対極にあるものである。
なぜなら、「愛」とは、フロイトによれば「本質的にナルシシズム的なもの」であり、これが拡張された自我の中に同化された対象(例えば異性)にも適用されるようになるのであって、”隷属”ではなく”支配”を希求するものだからである(おやじとケモノと原初的な拒否)。
つまり、谷崎は、自我の解体のその先に、理想とする男女の関係をみているわけだ。
ところで、谷崎は大変な猫好きで、戦時期を除いて一生の間飼っていたらしく、ペルシャ猫が好きだったらしい。
どうやら近年は猫ブームのようで、私も、「もちまる日記」や「タイピー日記」をみてから寝るのが習慣になってしまった。
そういえば、「もちまる日記」の管理人の名前は「下僕」であり、まさに”隷従”の鑑のような人物である。