追悼・寺尾次郎(2)~ゴダールの名を不滅にした『気狂いピエロ』で語られるランボーの詩の一節
「また見つかった!何が?
永遠が
太陽と去った 海が」(寺尾次郎訳)
ゴダール監督が亡くなって、彼の作品を再度観てみようと思って記憶を喚起したのだが、「気狂いピエロ」は全くストーリーが蘇ってこない。
なぜなら、作中で繰り返されるランボーの詩の記憶が余りにも強烈だからだ(翻訳力)。
こうした現象は、ほかの監督の作品でもある。
例えば、ルイ・マル監督の「恋人たち」なども、ストーリーは完全に忘れており、その代わりにブラームスの音楽(レザマン「予告編」)だけが強烈に記憶に沁みついているのである。
というわけで、「気狂いピエロ」を調べていたところ、寺尾次郎さんによるランボーの詩の翻訳が見つかった。
(ちなみに、彼は、竹内まりやさんの「幸せの探し方」のフランス語部分の歌詞をつくった人でもある。)
太陽と”去った”というところは、中原中也=金子光晴に近い表現である。
さて、この詩はどう訳すべきだろうか?
「また見つかった!何が?
永遠が
太陽と去った 海が」(寺尾次郎訳)
ゴダール監督が亡くなって、彼の作品を再度観てみようと思って記憶を喚起したのだが、「気狂いピエロ」は全くストーリーが蘇ってこない。
なぜなら、作中で繰り返されるランボーの詩の記憶が余りにも強烈だからだ(翻訳力)。
こうした現象は、ほかの監督の作品でもある。
例えば、ルイ・マル監督の「恋人たち」なども、ストーリーは完全に忘れており、その代わりにブラームスの音楽(レザマン「予告編」)だけが強烈に記憶に沁みついているのである。
というわけで、「気狂いピエロ」を調べていたところ、寺尾次郎さんによるランボーの詩の翻訳が見つかった。
(ちなみに、彼は、竹内まりやさんの「幸せの探し方」のフランス語部分の歌詞をつくった人でもある。)
太陽と”去った”というところは、中原中也=金子光晴に近い表現である。
さて、この詩はどう訳すべきだろうか?